第1回〜第30回
第31回〜第60回

第71回 “映画は続くよ、どこまでも”


 昨年11月の東京フィルメックスで、没後10年を迎えた相米慎二監督特集に通っていたのも束の間、年末に突然飛び込んできた森田芳光監督の訃報。作風こそ違えど、同時期にデビューし、日本の映画界を牽引したふたりの鬼才が、既にこの世にいないなんて、映画の神を呪いたくもなるが、命を擦り減らして撮り続けた彼らの作品群は、“映画を観た”という実感や映画的記憶とともに、これからも生きていく。

 そんな重い気持ちを抱えつつ、趣は様々であるが、後々まで“引きずる”パンチの利いた作品たちで、今年一年を始めてみたいと思う。

 ドキュメンタリーの世界で数々の賞に輝いてきたワン・ビン監督が、満を持して長篇劇映画デビューを飾った『無言歌』。1960年、反革命分子として収容所で過酷な労働を強いられた者の多くが命を失ったという、封印されてきた中国の苦い過去を掘り起こす。悲惨さを強調することなく、敢えてモノクロかと見まがうばかりに均一で淡々としたトーンを採用したことで、厳しい気候や壮絶な飢餓状態のために、死すらも日常であった当時の状況が、不気味なほど静かにあぶり出される。そんな長い沈黙を、遠路はるばる夫を訪ねてきた妻の悲痛な嗚咽が破り、カメラが当たり前のように映し出してきた収容所の異常性を一瞬際立たせるが、それすらも、風が吹き荒れるだだっ広い砂漠地帯では、無残にかき消されてしまう。こうして忘れ去られてきた幾多の尊い命を、ささやかながらもスクリーンに甦らせるべく、ワン・ビン監督は、住み慣れたドキュメンタリーの地平から、羽ばたいてみせたのかもしれない。

 旧ソ連のグルジアに生まれ、後に拠点をパリに移し、現在まで国際的賞賛を浴び続ける名匠・オタール・イオセリアーニの最新作『汽車はふたたび故郷へ』は、自伝的要素を帯びつつも、どこか達観した視点が醸し出す浮遊感が、味わい深い逸品。撮りたい映画を撮ることのできる自由を求めて故郷を後にする、少々頑固な主人公の若き映画監督は、信念を貫き通すことの崇高さと同時に、それに伴う孤独をもまとっている。現在と過去、現実と虚構との間を自在に行き来する流麗なカメラワークは相変わらず健在であるが、大空を舞う伝書鳩など、自由に見えても逃れられぬ宿命を背負わされた象徴的なモチーフが、場所を移しても撮りたい作品をなかなか撮れずにいる主人公と重なり、独特のユーモアが彩るイオセリアーニ作品の中でも、よりペーソスが濃厚に漂う。水を打ったような静けさの中に、ミステリアスさがざわつくラストシーンは、知覚に縛られがちな観客の想像力を大いにかき立て、映画ならではの神秘的な世界へといざなうのである。

 多方面で活躍するクリエイターのマイク・ミルズが、波乱の晩年を送った父親と自身とのかけがえのない日々をベースに、忘れがたい物語を紡ぎ上げた『人生はビギナーズ』。妻亡き後、御年75歳にして同性愛であることをカミングアウトし、最後の5年間を自らに正直に生き抜いた父親の死から立ち直れない主人公は、(後から振り返れば)夫婦愛が希薄だった家庭環境のためか、恋愛も含めて親密な人間関係を築くのが苦手で、運命の相手かもしれぬ女性に対しても、尻込みする始末。そんな不器用な恋のキューピッド役を務める、亡父の愛犬の思わぬ活躍が温かな笑いを生みつつ、夫からの真の愛を得られぬ淋しさを紛らすように、ひとり息子と戯れるアンニュイな母親との風変わりな思い出が、当時の世相を切り取る数々の写真とともに、淡いタッチで綴られていく。終わりと始まりが交錯し続ける人生を、一進一退に歩む“ビギナーズ”の流儀は、あくせくした現代人にも目から鱗の、潤いをもたらしてくれる。

 昨年のヴェネツィア国際映画祭で、体当たりで挑んだ主演の染谷将太と二階堂ふみが日本人初となる最優秀新人俳優賞を受賞し、予想だにしなかった悲劇に沈む日本に一抹の光をもたらした『ヒミズ』が、遂に公開。カルト作家的なポジションから、『愛のむきだし』(09)以降、1作ごとに注目を浴びる存在となった園子温監督が、初めて手掛けた原作ものとしても話題を集めている。子どもは親を選べないが、次々と襲いかかる試練にも、前を見据えてがむしゃらに全力疾走する若いふたりを通して、東日本大震災後を生きる人たちにもエールを送る爽快なクライマックスは、血みどろの絶望の果てにのみ希望の兆しを見出す近年の園作品の中で、まぶしい衝撃を放つ。実際の事件に想を得てきた映画界の異端児が、容易には解決し得ぬ現在進行形の窮状の只中で産み落とした渾身作は、意外なほど真っ当な青春映画として、まっすぐ心に突き刺さる。

 目を背けてしまいがちなことを直視し、安全な位置から眺めているだけの観客の心をかき乱してきた異才・イ・チャンドン監督が、美と醜、抽象と具体とのせめぎ合いから生まれる“詩”を主題に撮り上げた『ポエトリー アグネスの詩』。常に脆さや狂気をはらむ彼のこれまでの作品の主人公と同様に、本作のヒロインとなる66歳の介護ヘルパーも、日に日にひどくなる物忘れと闘っている。離婚した娘に代わり、難しい年頃になったその息子をひとりで育てながら、夢見る少女のような可憐さも失わない。詩作教室に通い始めた直後に、彼女は忌まわしい事態に巻き込まれるが、記憶が薄らぐ中で、さりげない情景を仔細に観察し、自身の内面にもとことん向き合ううちに、ある一篇の詩を生み出すに到る。アナログなものづくりが死滅しつつあるご時世ではあるが、二度と訪れない瞬間を永遠につなぎ留めようとする詩作に、映画づくりの影を忍ばせたイ・チャンドンのしたたかな覚悟に、映画の明日を信じてみたくなる。

(映画ライター 服部香穂里)

第70回 “第二の人生劇場”


 偶然ではあるが、三十路そこそこの独身男女が、不意に自らの死と向き合うことになる『50/50 フィフティ・フィフティ』『私だけのハッピー・エンディング』を立て続けに観る。振り返れるほど長くもない過去に思いを馳せて涙にむせぶよりも、つらすぎる現実を底抜けのユーモア感覚で受け止めた上で、新たな恋をし、まだまだ健在である親とのこじれた関係を修復するのにも懸命な彼らの姿に、“今”という瞬間を丹念に積み重ね、日々を更新していくことの大切さをひしひしと実感。悲しみを笑いに変え、不幸の中にもささやかな幸せを見出す人生観がまぶしい、心に響く2作である。

 高校時代の初恋を成就させた中年男が、長年連れ添った愛妻から一方的に離婚を切り出され、カッコよく生まれ変わろうと奮闘する様をコミカルに綴った『ラブ・アゲイン』。彼を中心に、年上のベビーシッターに猛アタックを続ける少年、父子ほど歳の離れた相手に恋心を伝えられない女子高生、真実の愛に目覚めてしまった自分にとまどうプレイボーイなど、てんでバラバラな男女のそれぞれの転機が、ひねりの利いたサプライズを随所に忍ばせながら、絶妙にからみ合っていく。実力派キャストたちが持ち味を発揮しつつ、悪人がひとりも登場しないのも、誰かに何かを期待せずとも、自ら行動を起こしさえすれば状況も好転し得るということをポジティブに伝え、後味爽快な佳篇に仕上がっている。

 自身の人生を自己プロデュースしようと躍起になるあまり、よき理解者たちが差し伸べてくれる手をも振り払い、自死を選びとってしまう男の46年の激動の生涯を、彼を知る者たちの数々の証言から多面的に浮き彫りにしていく『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』。エリートコースに背を向けて革命家の道を爆走した見沢は、殺人という許されぬ罪による獄中での体験を肥やしに、念願の売れっ子作家の地位を手に入れるが、自分の意志で引き寄せたはずの憧れの人生に、次第に追いつめられていく。そうした様子は、息子を溺愛した母親らの口を通して間接的に語られるのみだが、あまりに強烈な証言ゆえ、限りなくリアルに近い光景を脳裏に再現し、叶えられた夢の先に待ち受ける悲劇の残酷さを、生々しく印象づける。

 将来を嘱望されてプロ野球界に足を踏み入れるも、選手としては鳴かず飛ばずに終わり、スカウトに転身後、貧乏球団だったアスレチックスのGMとして大輪の華を咲かせることになる実在の人物を、ブラッド・ピットが快演する『マネーボール』。選手の年棒やらネームバリューといった表面的な要素が、勝利につながると信じ込まれてきた保守的な業界に、コンピューターで緻密にはじき出したデータ主義を導入し、一見地味な“出塁率”を重視した新たなチーム編成により、旋風を巻き起こした異端児のサクセス・ストーリー。とはいえ、たった10年間の不甲斐ない選手生命や破綻した結婚生活など、彼の“負”の側面をも丹念に描くことで、いわゆる“感動の実話の映画化”とは一線を画し、逆境や選択を次々と迫られる重要局面での身の処し方など、様々な示唆に富む上質の人間ドラマでもある。

 婚約指輪を購入したまま、愛する人との記憶だけが欠落してしまった男が、想定外の切ない真実へとたどり着くまでの彷徨を、浮遊感漂うメルヘンチックなタッチで映し出す『指輪をはめたい』。自分が本当に指輪を渡したかった相手が誰なのかを探るべく、三者三様の魅力でアプローチしてくるお嫁さん候補の間を、図々しくもフットワーク軽く行き交う彼は、謎のスケート少女の導きにより、現実と妄想が曖昧に溶け合った異空間へと迷い込む。過去の恋愛をドライに吹っ切り、次なるステージへと颯爽と歩き出す凛々しき女たちを横目に、捨て切れない未練や後悔に縛られたままの男は、かつての恋人たちの背中を複雑な気持ちで見送りながら、その場に立ち尽くすしかない。そんな男女の永遠のすれ違いを、いつにもましてズタボロの山田孝之が、ペーソス豊かに体現している。

(映画ライター 服部香穂里)

第69回 “正義の見方”


 森とともに生活を営み年輪を重ねてきた人生の大ベテランと、漠然とした不安や悩みを胸に将来を見据えようとする高校生との、束の間の交流を見つめたドキュメンタリー『森聞き』。老若4組の、ホームステイ以上、弟子入り未満の濃密な関係が育っていく様を観ながら、誰しもが通る多感な時期に、自分だけのヒーロー、ヒロインにめぐり逢えた若者らが、うらやましく思えた。実感を伴わぬままコロコロ更新される政府のもと、ビジョンが描きづらい時代であるが、達人たちの腹の底に響く言葉の数々は、彼らの血肉となり、これからの様々な局面で、大いに力を発揮するであろうから。

 第二次世界大戦の只中、人一倍の愛国心とは裏腹に、生まれもった脆弱な肉体のせいで入隊できずにいる青年が、米国軍の極秘計画の実験台として筋骨隆々の“スーパーソルジャー”へと変貌を遂げ、銃弾をもはね返すシールドを片手に躍動する姿を描く『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』。外見は様変わりしても中身は純真なままの愛すべき主人公を演じるのに、たまたま携帯電話がつながってしまった見ず知らずの女性の危機を回避すべく奔走するお人好しを快演した『セルラー』(04)のクリス・エヴァンスは正にハマリ役で、真のヒーローに必要な条件を、嫌味なくナチュラルに体現する。米国を中心に語られてきた感のある“正義”の概念が揺らぐ現在、好戦的なムード一色のあの時代の異様な熱狂に包まれた彼が時折見せるとまどいは、大義名分の下で犠牲になってきた多くの人々への、鎮魂にも見えてくる。

 作品間に明確なつながりはないものの、主演の小林聡美をはじめキャストや内容の類似性により、『かもめ食堂』(06)シリーズの最新作として位置づけられそうな『東京オアシス』は、密かな問題作『マザーウォーター』(10)から連続登板となる松本佳奈が、共同監督を務めている。『かもめ〜』の舞台となったフィンランドを皮切りに、居場所を求めて各地をさすらってきた小林であるが、今回の彼女は、ホームグラウンドともいえる東京で、煮詰まり気味の心をもて余している。劇中で“似顔絵が描きづらい”と評される彼女の表情のアップが、いつになく重ねられることで、平穏で淡々としたイメージを抱かれがちな彼女の実人生のうねりすらも、静かに浮き彫りにされる。そんな彼女の背中をそっと押すのは、見かけによらず勇敢ななで肩の青年や、一足先に新たな道を模索し始めた昔なじみたち。正解のない人生を切り拓き、“どこか”ではなく“ここ”をオアシスにしようと格闘する彼女らの葛藤は、シリーズ随一のリアルさで迫ってくる。

 大切な家族とともに普通に生活するだけのことが、いかに困難で、それゆえに尊いかということを、アカデミー賞ノミネートも納得のジェニファー・ローレンスの力演が光る、大人と子どもの間をたゆたう17歳の凛々しきヒロインが、命懸けで証明する必見作が『ウィンターズ・ボーン』。荒廃した小さな村で、犯罪者の父と、精神を病んでしまった母に代わり、窮乏する日々にもささやかな幸せを見出しながら、幼い弟と妹の世話をしてきた主人公に、保安官から突然、保釈後に失踪した父を見つけないと家を失うという宣告が下される。タイムリミット1週間の父捜しの過程で、曲者揃いの親戚たちから次々と理不尽な仕打ちを受けつつも、最後まであきらめない彼女に根負けしたかのように、男に従属してきた村の女たちも、一族を束ねる血の掟を破り、それぞれの“正義”に基づく大胆な行動に出る。その皮膚感覚に訴える壮絶な覚悟に戦慄を覚えながら目が離せなくなってしまうクライマックスに、この印象的なタイトルが、切なくも温かな余韻を与えている。

(映画ライター 服部香穂里)

第68回 “毒とクスリのあいだ”


 煙草は吸わないが、喫煙室に抵抗はない。愛煙家にも何かと風当たりの強いご時世に、それでも吸わずにはおれないから吸うという覚悟をもって集う人々が、毒を薬のように食らう空間の居心地は、案外悪くはない。

 キャリア初期の“悪意”は影を潜め、『あの子を探して』(99)などの少々鼻につくヒューマニズムを謳う人間ドラマと、自らの欲望をあるがまま実現させたかのような『HERO』(02)などのド派手なアクション大作を二本柱に、世間的地位を向上させてきたチャン・イーモウ。少々胡散臭いポジションに陣取っているように見えなくもない彼が、久々に低予算時代の作品群に充満していた毒と、大家になって以降の彼のトレードマーク(?)ともいえる悪趣味なほどの豪奢さとを、程よく溶け合わせた快作が、『女と銃と荒野の麺屋』。コーエン兄弟の出世作『ブラッド・シンプル』(84)を下敷きにしつつ、イーモウならではの色彩感覚と、私利私欲をむき出しにしながら自滅していく登場人物たちの、愚かだがどこか憎めぬキャラクター造形が生き、さらに、タイトルのせいか、どこかピーター・グリーナウェイの『コックと泥棒、その妻と愛人』(89)風のテイストも感じられ、イーモウのパクリの達人としての本領、もとい、リスペクトの名手としての手腕が、存分に発揮されている。

 昨年、テレビ東京系で放送されていた「モテキ」は、深夜枠という放送時間帯に、カラッとした毒の利いたユーモアがマッチして、ついついチャンネルを合わせてしまう好篇であった。そんなむっつり助兵衛なドラマが公共の映画館に、しかも、恋に恋するバーチャル肉食系男子・藤本幸世=森山未來を取り巻く女優陣は映画化にあたって一新され、さらに配給を手掛けるのが、メジャー・オブ・メジャーの東宝と知り、“……どうなん?”と、その動向を密かに見守っていたのである。ドラマ版では、遥か先を行く女たちが強力すぎて、彼女らとの交流を経ても、何ら成長できずに自己完結してしまう藤本の悲哀が、涙まじりの笑いを誘ったが、映画版の藤本は、本命の彼女をあきらめようとしない“らしからぬ”ガッツを発揮し、その頑張りが、彼女たちのハートにまで火をつけてしまうため、笑うに笑えない修羅場が訪れたりもする。過去の失敗を薬にささやかな成長を遂げる藤本に、感慨深さと同時に、一抹の淋しさを感じたのも事実である。

 古きよき時代のスクリューボール・コメディの香りのする佳篇『ステイ・フレンズ』。トップ・シンガーとして活躍するかたわら俳優業もこなすジャスティン・ティンバーレイクと、『ブラック・スワン』(10)でヒロインのポジでもありネガでもあるセクシーな小悪魔を快演したミラ・クニスとの抜群の相性が、一見、毒にも薬にもならなそうなボーイ・ミーツ・ガールもの(プラス10歳強)を、すこぶるチャーミングな作品へと進化させる。自虐を恐れぬ強靭なユーモア・センスにナイーヴさを忍ばせるふたりゆえに、あけっぴろげな友人関係から男女の恋愛へと踏み出そうとする過程で陥るジレンマを、大らかな笑いで包み込みながら、さりげなくリアルに体現できるのだ。結婚という形式ばったゴールに押し込まず、とりあえず一緒に過ごす時間をいとおしむことに幸福を見出すカップルの有りようは、未来の不確かさを痛感させられている身には、妙にまぶしく映るのである。

 数々の賞に輝いた『戦場のピアニスト』(02)により、“異端”から“巨匠”へ祭り上げられた感のあるロマン・ポランスキーであるが、本来の彼の資質であるパラノイア的な嗜好が、全篇にわたり毒々しく蔓延する怪作が『ゴーストライター』。元英国首相の自叙伝を執筆することになったライターが、書き進める過程で驚愕の真相に絡めとられていくというプロット自体は、さして目新しくもないが、本作の不気味な面白さは、物語の入口としての明確な“起”こそあれ、その後の“承・転・結”が、作品の舞台となる孤島の曇りがちでウェットな気候の中で混じり合ううちに、気づくとエンディングに導かれている、ポランスキーの確信犯的に底意地の悪い演出にある。観客の道しるべともなる名もなきライター役で、おぼろげだが確かな存在感を放つユアン・マクレガーの視点に固執することで、従来のイメージを逆手にとったかのような俳優陣の“含み”を残す各キャラクターの実像が曖昧になり、観客に提示される一見フェアな事実ですら、実際はライターの妄想に過ぎぬのでは……という疑問が頭をもたげ、鑑賞後にまで延々と尾を引き続けるのだ。

(映画ライター 服部香穂里)

第67回 “家族の肖像”


 先月の19日に亡くなった原田芳雄氏は、“血縁だけが家族じゃない”と、度々口にしていたという。しかし、その言葉は裏を返せば、根底にある血のつながりを、彼が非常に大切にしていたことの証なのではないか……と、喪主を務めていた長男・喧太氏の堂々たる立ち居振る舞いに、その思いを強くした。そもそも、映画の成り立ち自体が、集合と解散を繰り返す、かりそめの家族のようなもの。そんな現場をこよなく愛し、最後の作品となった『大鹿村騒動記』に到るまで、生涯現役を貫き通した唯一無二の映画俳優の魅力は、ナナゲイはじめ関西の各劇場で組まれる特集上映の作品にも、濃密に刻まれている。

 すべてを観届けた後で、タイトルの意味がじんわり利いてくる佳篇が『リメンバー・ミー』。主演を務めるロバート・パティンソンは、若い女性を中心にブレイクするきっかけとなった『トワイライト』シリーズでは、老いることのない肉体をもつヴァンパイアの哀しみを、蒼白の肌に染みわたらせているが、今回演じる青年は、家族を顧みない父を憎み、絵の才能に秀でつつも周囲になじめない妹を愛し、亡き兄の年齢に追いつこうとしている自分に苛立ち、限りある生を浪費するがごとく日々を悶々と過ごしている。そんな彼が、母親を目の前で殺された過去をもつ女性と出逢ったことで、誕生日の憂鬱が喜びに変わり、ひび割れた家族の溝も、少しずつ埋められていく。いつものように迎える朝。反抗的な息子や過保護な父らとのちょっとした諍いも、そんな家族がそばにいるだけで幸せなのだということを、不意に訪れるラストが、静かに語りかけてくる。

 長年にわたる映画人生に自らピリオドを打った、99歳の新藤兼人監督最後の渾身作が『一枚のハガキ』。故郷の広島に原爆を投下され、多くの戦友を見送り、数々の死者の命の重みを原動力に、映画を撮り続けてきた新藤監督が、最後の作品に選んだテーマも、やはり“家族と戦争”であった。戦争によって破壊されつくした家庭に、人生を翻弄された農家の嫁は、終戦を迎えた後も、幸せになることを拒絶するかのように、“余生”を淡々と生きていた。そこに、彼女が出征中の夫に宛てて、シンプルだが熱烈な愛をしたためた葉書を手に、戦死した夫の戦友が訪ねてくる。彼もまた、父や娘に裏切られ、人生を見失った戦争の犠牲者であり、くじ運のよさだけで生き永らえた自分を、呪ってさえいた。戦争を縁に遭遇したふたりが、すべてを終わらせ、また始めようとする姿に、完全燃焼した新藤監督の“これだけは言っておきたい”と次代に託す、平和への痛切な願いが込められている。

 寡作の名匠・テレンス・マリックの新作を、リアルタイムで体感できることの喜びに浸りたくなる、傑作にして問題作が『ツリー・オブ・ライフ』。夢をあきらめ子どもたちに厳しく接する父、いつも笑顔で家庭を灯す母、そして、優しい母のことが大好きで、“人間は強くあれ”と息巻く父が苦手な3人の息子たち。長男は、そんな父の人生を否定しつつも、その影に支配され、ビジネスの成功者に昇りつめたが、優しすぎた亡き弟の幻影を追い求め、心を満たすのは虚無感ばかり。後戻りできない人生の痛みを全篇にたたえながら、彼らの一方通行の詩的なモノローグが、時空間を自在に飛び越え、1950年代のごくごく平均的な一家の物語を、時にシュールに、時に情感豊かに紡ぎ出していく。理不尽な死に溢れている現在、途方もなく続く生命の歴史の一部として、自身が生を受けた神秘に対する畏怖と感謝の念を忘れずにいることが、遺された者にできる、唯一の供養なのかもしれない。

(映画ライター 服部香穂里)

第66回 “あやしい語感”


 ひらがな、カタカナ、漢字まじりで表現される日本語は、都合のよい造語を次々と生み、無限の可能性を秘める一方で、何ともうさんくさく曖昧な言語でもある。だからこそ、格闘する価値がある、ともいえるが。

 見上げるといつも、すべてを見守り、見透かしているかのように広がる青い空。漠然たる不安感をそこに見出したのは、あの柄本明が監督を務めた早すぎた怪作『空がこんなに青いわけがない』(93)であったが、三重県の四日市で、自然の恵みの源でもある青空を奪われ、運命の歯車を狂わされた人たちの怒りや悲しみを、淡々と見つめる『青空どろぼう』。伊勢湾一の漁師を夢見ながら気管支ぜんそくを発症し、78歳の現在も前向きに闘病を続ける野田氏と、四日市の公害の全容を、穏やかな佇まいを崩さず黙々と記録し続けている82歳の澤井氏。コンビナート企業を恨むのではなく、敗戦から高度経済成長へと急進した日本政府の綻びの余波こそを、これからの世代に伝えたいと願う野田氏のスタンスに共鳴するがごとく、本作も、青空を奪った存在を単純に突き詰めたり糾弾したりはしない。公害という名の悲劇が引き合わせた対照的なふたりの、40年近くに及ぶ唯一無二の信頼関係に焦点を当てることで、声高な社会派ドキュメンタリーとは一線を画し、現代、未来にも通じる心揺さぶる人間ドラマとなっている。

 暗い闇が立ちこめ、しんと静まり返った池に、ぬっと浮かぶ3つの遺体。ホラー映画さながらに幕を開ける『復讐捜査線』は、『007』シリーズなどで知られるマーティン・キャンベル監督&かのメル・ギブソンという超メジャーなタッグの実現でありながら、どこかB級感漂う邦題に見合った、それでいて、両者の本気度が全篇からほとばしる、不思議な肌合いの作品である。目の前で無残に殺された愛娘の死の真相を追う刑事にふんしたメル・ギブの、スティーヴン・セガールも真っ青な破れかぶれのスタンドプレーが、娘を亡くした父親の喪失感を極端すぎる形で具現化し、呆気にとられているうちに、なぜか涙がちょちょぎれる始末。大企業の恐ろしい陰謀の犠牲となる娘は、限りなく人災に近い天災に見舞われた現在の日本の状況とも微妙に重なり、常識からは逸脱しようが、自らが信じる正義を命懸けで実行する主人公に、苦境に屈せぬリーダー像のあるべき姿の一端が、垣間見えたりもする。

 タイトルの意味は未だ飲み込めぬままであるが、SABU監督×心温まるコミック原作もの、うさぎ×ドロップ、松山ケンイチ×芦田愛菜などなど、すべてにおいて明らかにちぐはぐな組み合わせでありながらも、そんなアンバランスさこそが、『うさぎドロップ』の魅力でもある。企画との遠い距離を何とか自分に引きつけるためか、SABUは、身体能力に長けた松山に、芦田嬢をお姫様だっこまでさせた上に、初期作品のパートナーであった堤真一よろしく、ひたすら走らせる。無邪気で可愛らしい娘というよりは、年齢の離れた恋人に近い魔性を放つ芦田に対し、新米パパ・松山に、寝ても覚めても体力の限界まで尽くさせるのである。その結果、SABU特有の暴走する妄想の世界の中で、若くしてアクの強い演技が持ち味の凸凹コンビの毒気が、絶妙に中和し合い、時に艶っぽさすら漂う父娘愛へと昇華されている。

 “蜂蜜”“ミルク”“卵”と、生命そのものを人間が横取りしているかのような罪悪感すら覚えるモチーフばかりをタイトルに掲げながら、主人公・ユスフの半生を追う3部作の完結篇であるが、年代的には『卵』、『ミルク』と遡り、最も若い少年期にあたるのが、ベルリン国際映画祭で金熊賞に輝いた『蜂蜜』。吃音ぎみで牛乳嫌いのユスフ少年が、物静かだが息子想いの養蜂家の父と過ごす時間のかけがえのなさは、牛乳配達をして母を支えながら詩人を志すユスフの青年時代を描く『ミルク』、詩人となったユスフが母の死を看取ったという美少女とともに旅をする『卵』を経て、さらに輝きを増す。極端に削ぎ落とされた台詞の中で、トルコの気鋭・セミフ・カプランオール監督の卓抜した視覚と聴覚が存分に発揮され、鳥のさえずりや渓流の響き、父と歩いた森に射し込むやわらかな陽光などが、ユスフの言葉にできない心の声とささやかな成長を、見事に代弁している。

(映画ライター 服部香穂里)

第65回 “おわりのはじまり”


 海外ドラマは、シーズンごとの出来が命運を握るため、1話完結の形であれ、伏線が巧妙に張られ、最終話も、次なるシーズンへの布石として重要な意味をもつ。現在放送中のNHK朝の連続テレビ小説「おひさま」も、トータルで半年間という長丁場の中、1週間をひとつの小さな単位として、現在までのところ、充実の仕上がりを見せる。井上真央、満島ひかり、マイコという同世代の女優陣が、“永遠の友情を誓い合ったお友だち”を、それぞれの個性をギラつかせて熱演しているのも、朝に似合わずスリリング。さらに、語りも務める若尾文子と聴き手の斉藤由貴が、『アマデウス』(84)のサリエリと神父がごとく、週の初めと終わりに登場して心地よいリズムを刻み、翌週への期待感を高めるのに貢献している。

 ベルリン国際映画祭で金熊賞と批評家連盟賞をW受賞した『悲しみのミルク』のヒロインは、ペルーの凄惨な過去を体現するかのような母親が、最期まで忘れることのできなかった恐怖や怒り、憎しみを、幼い頃から母乳を通して自分も引き継いでいると信じ込んでいるために、人目を惹く美貌に恵まれつつも、男性なるもの全般への不信感に満ち満ちた不安げな表情を常に浮かべながら、未だひとりで出歩くことすらできずにいる。作品の冒頭で、意味深な歌を遺して他界する彼女の老母は、遺体となった後もいよいよ存在感を増し、事あるごとに娘にとっての重々しい枷となるが、それと同時に、頑なに閉ざされた彼女の心を、徐々に解きほぐしていくきっかけともなる。その時の率直な気持ちを即興的に唄う彼女の歌には、母親の後ろ向きな恨み節とは異なる、きりりと前を見据える意志のようなものが宿り、母娘の別離は、母親なしでは生きてこられなかった娘の、ささやかな独立宣言でもあるのだ。

 あらゆる技術が格段に進歩を遂げ、実写とアニメーションとの境界線がますます曖昧になる中で、細やかな手仕事によるクレイアニメーションにしか表現し得ない世界を見事に構築した『メアリー&マックス』。オーストラリアに住む8歳の少女・メアリーと、アメリカのアパートでひとり暮らしの44歳のマックス。甘いものに目がなく、お気に入りのTV番組もたまたま同じであった彼女たちの最大の共通点は、とてつもなく孤独であること。相当にヘヴィーでグロテスクな各々の日常を、さらさらと紙いっぱいに書き連ねて投函するという、ふたりだけのユニークな方法で、直接言葉を交わすことはなくとも、その交流は20年にも及んだ。したため続けた山あり谷ありの凸凹男女の人生は、並行線をたどりつつも大陸や世代を超えて確実に交錯し、お互いにかけがえのない親友同士として影響を与え合っていたこと、百聞が一見に勝ることもあるということを、作り手たちの想いがスクリーンの端々にまで込められたクライマックスは、もの悲しくも温かく語りかけている。

 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『BIUTIFUL』と、石井裕也監督の『あぜ道のダンディ』は、肌合いはまるで違えど、抗いつつも引き込まれてしまう死への誘惑、死は必ずしも終わりではないという親近感に貫かれた、いずれ劣らぬ珠玉の人間ドラマである。『BIUTIFUL』の主人公・ハビエル・バルデムは、自分の余命がわずかであることを誰にも打ち明けられぬまま、遺される家族のため、ありったけのことをしてやろうと奔走するが、そのガムシャラさが裏目に出て、思わぬ悲劇に見舞われもする。そんな決して“ビューティフル”とはいえない最後の日々に、かすかな光をもたらすのが、若くしてこの世を去ったため、まったく彼の記憶の中にいない父親の存在。そんな父子の幻想的かつ映画的な“再会”は、愛しい子どもたちを置いて旅立たねばならぬ彼にとっての、切実な祈りのようなものにも映る。片や『あぜ道のダンディ』の光石研は、思わしくない体調が、最愛の妻を亡くした時の症状と酷似していることから、自らの命の終わりを悟り始めるが、ふたりの子どもの前では自分なりのダンディを気取る彼には、バルデムと違い、カッコ悪さをさらけ出すことのできる長年の親友・田口トモロヲ(好演!)がいる。それに加え、妻が亡くなる直前に吹き込んだ、ある思い出の歌のテープが、心の支えとなる。妻にも逢いたいけれど、もう少し子どもたちとも過ごしたい。そんな引き裂かれた気持ちが見事に溶け合う、ほどよいチープさがたまらぬ泣き笑いのミュージカル・シーンには、石井監督の死生観、人生観が凝縮されている。

(映画ライター 服部香穂里)

第64回 “偽善と偽悪”


 当各商品のCMに出演中のタレント+αが勢揃いして、坂本九の『見上げてごらん夜の星を』を1フレーズずつ唄う、某企業のCM。てんでバラバラの歌を、半ば強引に力技でつなぐ編集センスに感心すると同時に、あくまでアーティストとして情感豊かに歌い上げる人、役者としての現在と歌手としての過去との間で逡巡する人、歌うことへの苦手意識を拭えない人、無邪気にレコーディングを楽しんでいる人など、状況が状況だけに、声をかけられた限りは断れないご時世にあって、各自の芸能人としてのスタンスやら、偽らざる素顔やらが垣間見え、これで宇宙人・ジョーンズが揃えば完璧やのに……などと、ないものねだりをしつつ、ついつい見入ってしまうのである。

 女優同士の濡れ場などといった俗っぽいパッケージの内側で、アトム・エゴヤン監督らしい様々な知的趣向が施された意欲作が『クロエ』。『赤ずきん』『ジュリエットからの手紙』など、主演作が相次ぐアマンダ・セイフライドの落っこちそうなクリクリ目玉が、徐々に狂気を増していく本作のタイトルロールを演じるにあたっても、存分に生かされている。奇妙な依頼をする、無意識の悪意に満ち満ちた裕福な産婦人科医(ジュリアン・ムーア、貫禄の巧演)の心の隙間に侵入し、その偽善者ぶりを静かにあぶり出す、偽悪的な娼婦・クロエ。すべてを手に入れているのに、それにも飽き足らず不安で仕方がない熟女と、まだ若いながらも、失うものは何もない風情の捨て猫のような小娘のバトルは、攻守が目まぐるしく切り換わり、突如訪れる事故のような幕切れにも、自らの意志を介在させたクロエの決断は、恐ろしくも物悲しい、しこりにも似た余韻を残す。

 『再生の朝に ある裁判官の選択』の主人公は、人が人を裁くということに疑問も躊躇も挟まず、淡々と職務をこなしてきた真面目な裁判官。愛娘の命を理不尽に奪われ、ますます仕事に没頭するようになるが、そんな彼の、人間としての本能のようなものを呼び覚ましたのは、娘亡き後の崩壊寸前の夫婦関係を辛うじて繋ぎ止めていた、愛犬の存在だった。犬を飼うにも何かとややこしい中国にあって、登録料を払っていなかったのか、裁判官の犬も当局に奪われそうになるが、終始冷静な態度で通してきた彼は、ここで初めて、自らも法に背いていることはとりあえず棚上げし、“家族”のため、半狂乱で闘う。二台の車を盗んだだけで死刑判決を受けた青年に対する認識の変化のきっかけが犬というのも、皮肉めいてはいるが妙にリアルで、法律家である前に一個人として案件と向き合うことの重要性に立ち返った末に出した結論は、塞ぎがちの彼や妻に、穏やかな微笑をもたらすのである。

 あるレズビアン・カップルと、同じ遺伝子上の父親を介して誕生した姉弟との、一見風変わりだが、その実、ごくありふれた家族の肖像を、ひねりの利いたユーモアをたたえつつ細やかに描き出した『キッズ・オールライト』。思春期や反抗期も一通りあっただろうが、典型的な家庭以上に波風を立てず、“いい子”を演じながら、協力し合って暮らしてきたに違いない仲のよい姉弟が、ふたりの母親には内緒で父親を探り当てたことで、にわかに一家は色めき立つ。時には憎まれ役を買ってでも、大黒柱として家族を養ってきた自負のあるアネット・ベニングは、子どもたちとも打ち解けたのをいいことに父親気取りの遺伝子提供者(マーク・ラファロの見事なヘタレっぷり!)に、“家族が欲しけりゃ、自分で作れ!”と一喝する。ともに過ごし、泣き、笑い、怒り、いたわり合うからこそ、少しずつ家族になっていく。斬新な切り口から家族のありようが見える佳篇である。

(映画ライター 服部香穂里)

第63回 “こんなときも。”


 当たり前のように訪れていた明日が、来ない。手に届くはずのあらゆるものが、消える。ひたすら無力感に襲われた2週間あまり。“こんなときに”と“こんなときこそ”の間で揺れつつ、観て、書くことしかできんと開き直り、腹をくくる。 

 理不尽な災厄は、人間の天性を露にする。96年のアルジェリアで実際に起きた悲劇を題材にした『神々と男たち』のフランス人修道士たちは、内戦に巻き込まれ、武装イスラム集団の魔の手が忍び寄る中で、信仰や死への恐怖など、あらゆる葛藤と闘いながら、アルジェリアに留まることを決意する。死の危険にさらされる極限下においても、その瞬間まで自分らしく生きることを、自ら選び取るのである。ある覚悟を共有する彼らが最後に酒を酌み交わす時、バックに流れるチャイコフスキーの「白鳥の湖」の物憂げなメロディーとともに、修道士ひとりひとりの顔が、ゆっくりとアップで映し出される。その直後に7人が誘拐され、全員が殺害されるという凄惨な結末で映画も幕を降ろすが、観終わった後も脳裏に鮮明にこびりついているのは、最後の晩餐で見せた彼らの、厳粛さすら感じられる、晴れやかな面立ちであるのだ。

 正に「白鳥の湖」ズバリに想を得た『ブラック・スワン』も、バレエという芸術に身を捧げたダンサーの、あまりにスリリングでやるせない魂の彷徨に肉迫した力作。前作『レスラー』(08)でも、プロレスにすべてを懸けた男を生々しく描き出したダーレン・アロノフスキー監督であるが、主人公が男性から女性に代わっただけで、かくも視点が厳しく、深遠になるものか。ストリッパーを演じた『クローサー』(04)の時ですらヌードをためらった、見るからに“白鳥”タイプのナタリー・ポートマンが、盛りを過ぎたかつての名プリマ(ウィノナ・ライダー、怪演)に導かれるように、演技という枠を超え、どす黒い“黒鳥”へと変貌を遂げる終盤は、文字通り鳥肌もの。彼女が得たものと、あまりに大きなその代償を示唆するラストの台詞ににじむのは、『レスラー』のようなある種のカタルシスではなく、誰もが幸福を求めながらも、なかなかそれに到達できない、人生の痛みである。

 ある男女の出逢いと別れを、まったく異なる手法で見せる『ブルーバレンタイン』と『素晴らしい一日』。片やライアン・ゴズリング&ミシェル・ウィリアムズ、片やハ・ジョンウ&チョン・ドヨンという実力派同士のカップリングが、作品の肝であることは間違いなく、言葉とは裏腹に、ふたりの間に屈折した愛が貫かれている点で両作は共通しているが、その着地点がもたらす余韻は、真逆である。『ブルーバレンタイン』は、可愛い娘との一見幸福な三人暮らしながらも、実際の夫婦仲は冷えかけているカップルの現在と、彼らが運命的に恋におちたまぶしい日々を、回想という形はとらずに、並行して描いていく。ふたつの時間が重なり合うエンディングの、えも言われぬ幸福感と、それゆえの切なさ……。『素晴らしい一日』では、知らぬ仲ではない男女が、車で一日、借金行脚に繰り出す。会話の端々から、かつては愛し合ったであろうふたりの過去がほのかに浮かび、崖っぷち人生の只中ですっかり塞いだ女の心は、いい加減だが憎めぬ男によって、ゆるやかにほぐれ、車を降りた男を見つめる女の表情が、タイトルの意味を心地よく物語る。各人物の空白の時を見事に補完した4人の名演が、いずれ劣らぬ重層的魅力溢れる佳篇へと昇華させている。

 香港に潜入した孫文の暗殺計画を阻止すべく立ち上がった名もなき者たちの死闘を、ドラマはベタに、アクションは派手に描ききった『孫文の義士団』は、燃えに萌えまくる快作。度肝を抜かれる冒頭から結末まで、プロデューサーのピーター・チャンの人脈か、よくぞこれだけ集めたと嬉しくなる豪華キャストそれぞれに、見せ場が用意されている。整った容姿を敢えて傷つけたニコラス・ツェーの心意気、某CMで小籠包をハフハフさせていたファン・ビンビンの元亭主役・ドニー・イェンの身体張りすぎなラスト・ファイト、暗殺団のボスというポジションながらも単なる悪役に終わらないフー・ジュンの深み、さらに、ルンペン姿が意外と似合うレオン・ライの、『天使の涙』(95)好きにはたまらぬサービス・ショットまで、ひとりひとりの散り際が、彼らの生きた証として、フィルムに刻みつけられる。同じ“孫文”を切り口にしつつも、多彩なドラマを紡ぎ出してしまう香港映画人の底力は、芸のない大河ドラマに食傷気味の身には、何とも頼もしく映るのである。

(映画ライター 服部香穂里)

第62回 “カミング・アウト!”


 食のドキュメンタリー・ブームの火付け役ともなった『いのちの食べかた』(05)は、残虐な作業をシステマティックにこなす従業員、“いのち”がレーンに組み込まれた途端に“もの”へと成り果てる様子などを、余計なナレーションなど抜きに淡々と捉え、その“寡黙な多弁性”が衝撃を与えた。それに対し、オスカー候補に挙がった『フード・インク』は、一部の多国籍企業が富を独占する現在の食糧地図に、声を大にして警鐘を鳴らす意欲作。次々と明かされる事実は、気が滅入るものばかりであるが、全篇に一貫して流れる作り手たちの鼻息荒き正義感や信念は、観る者に食生活を見直すきっかけを与える、ポジティブさに満ちている。片や、ウィーンで廃棄される大量のパンの山の衝撃映像で幕を開ける、オーストリア発『ありあまるごちそう』は、儲け主義の会社の理念と個人の理想とのジレンマに苦しむサラリーマン、見るからに不衛生な水をガブ飲みし続ける赤ん坊らの“声にならない声”が、不敵な笑みをたたえるネスレのCEOが振りかざす、一方的な勝者の論理の隙間から漏れ聴こえ、深い影をおとす。

 今年のゴールデングローブ賞に輝いた青春ドラマの傑作『Glee』の魅力のひとつは、誰もが知る名曲の多面的な歌詞から、新たな世界が紡ぎ出されること。その原動力が、日本以上に厳しい生徒間の階級闘争渦巻くアメリカの片田舎の高校において、それぞれに複雑な事情を抱えるグリー部の個性豊かな面々の、歌を通して逆境すらも輝きに変えてしまう強靭な反骨心で、それは、ある感情の自然な発露として歌が位置づけられる従来のミュージカルとは、逆行した要素である。ディズニーの長篇アニメーション第50作『塔の上のラプンツェル』も、自身が王女であるとも知らずに塔に18年間も軟禁された、負のオーラをまとっていてもおかしくない悲劇の少女が主人公であるが、偽りの母を信じきっている当人は、強制的引きこもり状態に転がるささやかな喜びを拾い集め、のほほんと唄ってみせる。やがて、王子様の代わりに現れたハンサムな泥棒に導かれ、外の世界で味わうときめきを次々と歌に託すが、その情感を一層豊かにするのは、平穏なお嬢様生活と対極にある環境ゆえに育まれた、ヒロインらしからぬリアクション過剰ぎみの愛らしさなのである。

 デンマークの鬼才・ラース・フォン・トリアーの最新作『アンチ・クライスト』は、彼が鬱病に悩まされていた時期に書いた脚本が基になっているというだけあり、いつになくその素顔が窺える渾身の1作。『奇跡の海』(96)『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(00)『ドッグヴィル』(03)など、これまでのトリアー監督の作品は、極限状態に置かれた人物たちを粘っこく観察することで、様々な問題を提起しているかのようで、その根本に、人々が理不尽な運命に翻弄されるのをどこか楽しんでいるかのような、彼の底意地の悪さが見え隠れしていたのだが、今回は、すべての悪夢の発端となる夫婦の幼い息子の死を、ヘンデルのアリア『私を泣かせてください』をバックに、悪趣味なほど美しいモノクロの映像で映し出す冒頭のプロローグからして、既に確信犯的な悪意に満ちている。『最後の誘惑』(88)でキリストにふんしたウィレム・デフォーに敢えて演じさせた矛盾だらけの夫と、シャルロット・ゲンズブールが今後の彼女のキャリアが心配になるほどの鬼気迫る熱演をみせた妻との壮絶なバトルの結末に、トリアー監督の“俺は、エセ・フェミニストだ!!”との雄叫びが聴こえる気がして、その痛切なまでの潔さに、心地よさすら覚えるほどである。

 人前で話すのが苦手なシャイな性格である上に、幼少期から吃音に苦しみ、挙句の果てには、次男坊であるにも関わらず、長男の身勝手から望みもしない王位のポストが転がり込んでくる…そんな三重苦にあえぐジョージ6世が、型破りなスピーチ矯正人と行動力溢れる気丈な妻に支えられながら、立派な王へと脱皮する様を温かく見つめた『英国王のスピーチ』。昨年の『シングルマン』に続き、本作で2年連続アカデミー賞主演男優賞にノミネートされているコリン・ファースの素晴らしさは、自身の内なる傷と徹底的に向き合い、それをすべてさらけ出すだけの度量をもち、脚本に書かれたキャラクターを、血の通った生身の人間として、見事に体現し得ていることである。クライマックスのスピーチに、妻役のヘレナ・ボナム=カーター(好演!)ならずとも固唾を呑み、いつの間にやら聴き惚れてしまうのは、ひと言ひと言にジョージ6世の人となりが溢れ、そこに、演じる人物への敬意に根差した、役者としてのコリンの誠実な姿勢を見るからであろう。

(映画ライター 服部香穂里)

第61回 “あしたのために・・・”


 今年一発目に観た映画は、『あしたのジョー』。新年早々に燃え尽きるんかいな・・・・・・と独りごちつつ、1年先でも、遥か未来でもなく、ただひたすら“明日”だけを見つめて、無謀極まりない減量やトレーニングに励む力石徹、いや、そんな常軌を逸した漫画ならではのキャラクターに、ありったけの心血を注ぎ、ギラギラと息づかせた伊勢谷友介の役者魂に、ただただ脱帽。というわけで、抱負なんて大層なものを立てる代わりに、よりよい明日を生きるために、様々な意味で役立ちそうな作品に触れてみたい。

あしたのために・・・その1 我が道を行く
 資本主義経済の派手々々しい結晶のような、豪華客船上から幕を開ける『ゴダール・ソシアリスム』。いつもながらの膨大なサンプルを編み込んだコラージュ作品全篇に散りばめられた、観る者を挑発し続ける“ほのめかし”、絶えず無力感に襲われる“ひけらかし”は、ゴダールが定義する社会主義というよりは、ゴダール主義、ひいては、社会を構成する各々が自らの正義を貫く個人主義を、ささやかに擁護する。それは子どもとて同じで、こまっちゃくれた天才少年の、小難しい台詞を淀みなく喋る堂々たる論客ぶりに、大人も顔負けの、自らの足で立ち、考え、行動する、将来を担う子どもたちへの、ゴダールじいさんの期待がちらりと覗く。

あしたのために・・・その2 最悪は最高への転機
 人生最悪のどん底に沈んでいた男女が、つまずき、よろめき、道を見失いそうになりながら、ひとつの愛にたどり着くまでを、温かく見守る佳篇が『幸せの始まりは』。超セレブな大リーガーと天秤にかけた上で、人の好さだけが取り柄のボンボンを選ぶヒロインは、現実的ではないかもしれないが、とことん自身と正直に向き合った末に、いかなる苦境をも笑いに変え、卑屈な愚痴などとは一線を画す自虐的なユーモア感覚を身につけ、共有し合うことのできた奇特な男女は、この世知辛い世の中にあって、案外地に足のついた強力カップルとなり得るのではなかろうか。

あしたのために・・・その3 さよならだけが人生か?
 内モンゴル自治区にある、蒸気機関車最後の聖地ともいわれる舞台の滅びゆく光景を、映画という形で見事に記録した『ジャライノール』。神々しいまでに美しい自然をバックに、上司に隠れて車内で旨そうにビールを飲み交わしたりもするほど仲のよい老機関士と若い相棒との、かけがえのない友情と別れが、ゆったりと描かれる。高橋留美子の『めぞん一刻』が好きだと語る中国の新鋭・チャオ・イエ監督は、言葉では伝わらない大切な想いを、人と人との微妙な距離感や関係性の中に巧みに染みわたらせ、シンプルな物語ながらも、濃密な時間の流れる逸品に仕上げている。

あしたのために・・・その4 痛みを知る
 平凡で単調な日常の綻びに紛れ込んだ異物が、みるみるうちに取り返しのつかない暴力へと肥大する、まるで人生そのものを痛烈にカリカチュア化したかのような地獄絵図を、園子温監督が容赦なくスクリーンに描き出す『冷たい熱帯魚』。生の壮絶な照り返しとしての死に、ある種の崇高さを見出す園監督独特の美学が炸裂し、痛覚がマヒするほどに噴出する血みどろの笑いには、不健全なカタルシスさえ覚える。名バイプレイヤー・でんでんが普段の調子で飄々と怪演する、一見人あたりのいい殺人鬼と、不運な凡人役が妙にハマった吹越満の死んだ魚のような眼は、転落への第一歩はささやかな幸せのすぐ先にあること、その重みは失って初めて気づくということを、残酷なまでに思い知らせるのである。

(映画ライター 服部香穂里)


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