第60回 “正月気分に、背を向けて”


 酷暑だ、残暑だと、つい先日まで騒いでいたかと思えば、今年も残すところあとわずか。本来であれば、年末年始に向け、映画業界も大いに盛り上がる時期であるが、今年は、ディズニーの底力を観た目と耳に刺激的な『トロン:レガシー』に注目が集まる程度で、いわゆる正月映画らしい華やかさには欠ける興行となっている気がする。とはいえ、そのケガの功名というか、前回取り上げた『白いリボン』をはじめ、お祭り気分とは無縁の傑作、力作が揃っている。

 慌しく公開された感のある『モンガに散る』であるが、変革期を迎えつつあった時代のエネルギーに満ち満ちた台湾の港町を舞台に、義兄弟の契りを交わして、ともに黒社会へと足を踏み入れていく者たちの固い友情と裏切り、それでも断ち切ることのできない絆が呼び寄せてしまう壮絶な悲劇へとノンストップでひた走る、本国で今年ナンバーワンのヒットを記録した快作。日本では、人生のはかなさや世の無常などになぞらえることの多い桜の花びらが、血気盛んに青春を謳歌する、ギラギラした若者たちの躍動する生の象徴として効果的に用いられ、ややもすると泥くさくなりがちな物語の間を、現代的でスタイリッシュな疾風が心地よく吹き抜け、破滅していくチンピラたちの散り際でさえも、鮮烈な輝きを放つのである。

 『彼女を見ればわかること』(99)、『美しい人』(05)など、様々な葛藤を抱えた女性たちの波打つ心のひだに触れる作品で定評のあるロドリゴ・ガルシア監督。新作『愛する人』では、生まれた途端に引き裂かれた母娘が、ゆっくりと距離を縮め、切ない再会を果たすまでの長い道程を、胸打つ心のロードムービーとして撮り上げた。これまでも、名だたる女優たちから素の表情を引き出してきたガルシア監督であるが、今回も、巧すぎるのが玉にきずのアネット・ベニング、普通の人を普通に体現できる稀有なナオミ・ワッツを、敢えて同じ空間に置かず、競演とも共演とも異なるスタイルを選択することで、タイプの違う芝居巧者を一層の高みへと押し上げ、似ても似つかぬふたりを見事に母娘にしてしまう、映画ならではの魔法をかけた。

 共同で脚本を手掛けた『グッド・ウィル・ハンティング』(97)で、ともに注目を浴びた親友のマット・デイモンに、役者としては水をあけられた印象のベン・アフレックが、監督としての技量を発揮したのが、主演も務めた『ザ・タウン』。アメリカで最も強盗犯罪の多い街で生まれ育ち、何者にもなれない鬱屈感を抱えたままに犯罪を重ねる主人公と、彼とは対照的に、“タウン”の申し子のごとく嬉々として銀行を襲う幼なじみとを、コインの裏表のように巧妙に映し出す描写に、彼の演出手腕が冴える。演技面では、今年度のアカデミー賞受賞作『ハート・ロッカー』に続き、一筋縄ではいかない人物を好演したジェレミー・レナーに華をもたせるあたりに、ベンの人柄がにじみ、悲痛な中にも温かな余韻の広がる好篇に仕上がった。

 90年に、41歳の若さで自らの人生に終止符を打った佐藤泰志の連作短篇小説を、佐藤と同じ北海道生まれの熊切和嘉監督が、溢れ出るシンパシーを注入して映画化した『海炭市叙景』。佐藤の故郷である函館がモデルの寂れた地方都市の片隅で起こる5つの出来事は、物語と呼ぶにはちっぽけ、さりとて、エピソードの一言で片付けるには、あまりにも切実で、そこには、共感を通り越して嫌悪感すら抱きかねないリアリティがくすぶっている。ささやかな幸せを求めて、しゃにむに生きる人々それぞれの日常に、等しく光を当てようとするあまり、舌足らずであったり、逆に冗舌に見える場面もあったが、すべての人間に幸福になる権利があるはずだという、熊切監督の信念の表れでもあるのだろう。リアリズムから解放され、凍てつく夜の街をほのかに照らして走る、幻想的な路面電車に、精一杯の祈りを込めながら。

(映画ライター 服部香穂里)

第59回 “愛の毒薬”


 単なる悪口と毒舌とを分かつのは、“そこに愛はあるのかい?”(古っ・・・)という事だと思う。愛を秘めたまま毒を吐き続けるのには痛みが伴うが、それゆえに、生みの苦しみを経た言葉には、耳を傾ける価値がある。映画もまた然りで、ある対象に向けられた鋭い批判精神の核に、愛の存在が認められる作品であれば信頼できる、そんな気がする。

 今年9月に、好評のうちに放送を終えたNHKの朝ドラ版をポジとすれば、同じ素材を扱いつつも、映画版『ゲゲゲの女房』は、抑えた色調に淡いタッチが絶妙に溶け合った、ネガといえるかもしれない。貧乏すらも笑顔で乗り切る松下奈緒に対し、ぬぅっと伸びた艶めかしい脚の先で終始仏頂面の吹石一恵は、悲惨な家計の窮状を必死に訴える。水木しげる氏の過保護気味の母上の、毒気溢れる描かれ方には、原作者の布枝夫人も、苦笑しつつ溜飲を下げたのではないか。とはいえ、出逢ってから5日で結婚したふたりの距離がゆったりと縮まり、どん底の生活にも徐々に光が射し込むにつれ、ネガがポジへと反転していく過程をも、カメラは丹念にすくい取っていく。無造作に投げ出された新郎の義手にドキリとしていた新婦が、失くした方の左手をさりげなく携え、夫婦で支え合って歩く後ろ姿には、“ゲゲゲの女房の夫”となれた水木氏の幸福感すら、ほのぼのとにじみ出ている。

 未だ衰えぬ創作意欲で、バリバリ撮り続けるマノエル・ド・オリヴェイラの最新作が、撮影時に100歳を迎えたという『ブロンド少女は過激に美しく』。夕暮れ時の鐘が鳴り響く頃、仕事場の向かいの家の窓越しから覗く、珍妙な扇子を手にした少女にひとめ惚れした青年が、窓枠を額に見立てて絵画のモデルとしてでも愛でてりゃいいものを、親代わりの叔父の反対も押し切って結婚しようとしたばかりに、こっぴどい目に遭う。1世紀にわたって様々な経験を積んできた人生の達人が、若者をたしなめるともなれば、嫌味な説教譚にでもなりそうなものだが、オリヴェイラは、かつての自身を重ねるのか、恋に狂った少々間抜けな青年に、大いなる愛情を注ぐのである。かくして、オリヴェイラ流の機知に富む毒を随所に忍ばせながら、幾度の失敗にも一向に学習しない野郎たちにエールを送る、若々しい快作に仕上がっている。

 漫画家・西原理恵子の夫でもあった鴨志田穣の自伝的小説を、東陽一監督がリアリズムとファンタジーとを同居させつつ映画化した『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』。断酒宣言をしたそばから酒を買い漁るアルコール依存症の毒々しい地獄に肉薄したかと思えば、入院先の精神病院内での異様な食への執着を愛嬌たっぷりに見せる浅野忠信は、その酔っぱらい演技が絶賛された『風花』(01)の頃より、さらなる進化を遂げている。生きているのが不思議なほどに酒をあおり、奇跡的に依存症を克服したかに思われた矢先に、末期がんを告知される運命の皮肉。それでも映画は、“家”ではなく“うち”であるところに、家族という心の拠り所を求めた鴨志田氏の想いを存分に汲み取り、彼岸に立つ彼の視野まで、見事に組み入れている。ナナゲイとも縁の深い小林聖太郎監督待望の新作で、時期的に重なる日々を西原女史の目線でダイナミックに綴った『毎日かあさん』も、期待大である。

 得体の知れない悪意が、じわじわと蔓延していく様を、冷徹かつ粘着質に観察してきた映画界の異端児・ミヒャエル・ハネケが、久々に本国・ドイツに戻って第一次世界大戦前夜を舞台に撮り上げ、カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いた『白いリボン』。閉鎖的なプロテスタントの村で起こる、奇妙な出来事の数々の謎をひも解くうちに浮かび上がってくるのは、社会をむしばむ悪意の根源であり、そこには必ず、ややこしい葛藤にからめ取られた村人や、そんな大人の論理の矛盾を鋭く見抜きつつも、その影響から逃れることのできない子どもたちの存在がある。美しく深遠なモノクロの映像が、白か黒かに二分されていた当時の価値観のグレーゾーンをも静謐にあぶり出し、その結果、これまでの挑発的なハネケ作品とは一線を画す、ひねくれた人間愛に満ち満ちた、温かな余韻すら感じられる傑作となった。

(映画ライター 服部香穂里)

第58回 “生き別れ、死に出逢う”


 NHK教育テレビで放送中の人気アニメーション「おじゃる丸」。現在のエンディング曲「かたつむり」は、あの作詞家・秋元康の手によるものだが、子ども向け番組らしからぬ、いや、それゆえに、氏の代表作「川の流れのように」などよりもダイレクトに、人の生き死にを唄っている。「サザエさん」や「ドラえもん」同様、時間が推移せず半永久的に続くがごとき世界観の闇に触れ、無性に切ない気持ちに襲われる曲である。

 家族の命を無残に奪われた者、動機なき殺人を犯してしまった少年、正当防衛とはいえ発砲した罪悪感にさいなまれる警官、自分が自分でなくなっていく恐怖に震える孤独な人形作家らが、長い月日を縦横に駆け抜け、ダイナミックに交錯していくうねりを、4時間38分(!)の中に描き出した力作『ヘヴンズ ストーリー』。ひとりでは生きられないからこそ、身を寄せ、互いを愛し、時に激しく傷つけてしまう人間模様は、痛切極まりないが、すべてを吹っ切り、生と死が穏やかに溶け合うユートピアを疾走する少女の、憎しみが消えた瞳は、きりりと前だけを見つめている。

 お涙頂戴になりがちな設定ながら、自らの余命を知ってしまった10歳の少年の視点を作品の核に据えることで、死までの束の間の猶予期間に過ぎない人生に、精一杯立ち向かってみたくなる好篇が、『100歳の少年と12通の手紙』。わずか1日であっても、10年と思って懸命に生きれば、理不尽な死が訪れる瞬間でさえ、ある種の達成感すら伴う感慨深いものとなる。少年を励まし、逆に励まされもする、親子以上に歳の離れたピザ屋の女主人の、率直だが温かい受け応えは、妙な気遣いが仇となり、子どもを扱いあぐねている大人たちに、大切な何かを教えてくれる。

 一介の農夫から転身し、究極のワイン作りに命を燃やす男の、波乱に富んだ一代記『約束の葡萄畑 あるワイン醸造家の物語』。出逢いと別れに彩られた彼の人生を大きく左右することになるのが、突如として地上に舞い降りた天使であるが、たとえば川原泉の傑作短篇漫画「美貌の果実」などを彷彿とさせもするメルヘンチックな様相をたたえつつも、異様なまでに固い絆で結ばれていく天使が、幸運とともに男にもたらす死の影が、答えのないワイン作りにはあまりに短い限りある生を、リアルに浮き彫りにする。ワインを口に含む度に、醸造家の血と涙の味が舌に残りそうな、滋味豊かな逸品である。

 人生に絶望した男の笑顔の自殺で幕を開ける『パートナーズ』は、彼のついた嘘が、絶望するにはまだ早い同僚の青年を、盲導犬訓練士の道へと導く。“人間の気持ちも分からないのに、犬の気持ちなんて分かるはずがない”という至極真っ当なスタンスが、安易な感動作に流れるのを拒絶し、生き別れた犬への未練を断ち切れないパピーウォーカーの少女や、その想いを引き継ぎ盲導犬の育成に奮闘する訓練士の卵、不慮の事故で光を失った歌手たちが、犬を介して、不器用なほど正直に向き合う、濃密な人間ドラマとなった。若い男女が交わす会話のみで成立した、何ともエロティックな車内での“ラブシーン”に、いわゆる盲導犬ものには一見不釣合いな脚本家・荒井晴彦の手腕が存分に発揮されている。

 韓国からフランスに養女として引き取られたウニー・ルコント監督の実体験を基にした『冬の小鳥』。娘を棄て、その表情をほとんど窺い知ることのできない父親を、本作でプロデューサーを務めるイ・チャンドン監督の『ペパーミント・キャンディ』(99)、『オアシス』(02)では出ずっぱりだったソル・ギョングが演じたことで、次第に薄れゆく記憶に反し、その存在のみが残酷に肥大していく父親像を、観る者にも鮮烈に印象づける。大好きな父親が迎えに来る日を待ちわびていた少女は、養護施設での生活の中で、シビアな現実に直面する。一心不乱に自身を埋葬する儀式を通して、無邪気だった過去に別れを告げた少女は、心もとなくも自分の脚で、未来を切り拓いていくのである。

(映画ライター 服部香穂里)

第57回 “Who are you?”


 某食べもの屋にて。混雑時には、入口のボードに名前と人数を記入するシステムで、様子を見に中を覗くと、“何様ですか?”と、店員さん。“What's your name?”を丁寧にしてみたつもりなのだろうが、一瞬、“あんた、何ぼのもんやねん?”と問われた気がして、しばし口ごもってしまった。

 海辺が舞台ながらも、一分の隙もない息づまる展開に喉が異様な渇きを覚える、イランの現在を色濃く映した『彼女の消えた浜辺』。ヴァカンス先から、ひとり忽然と姿を消した“エリ”の行方を捜す中で、彼女の仲間であったはずの中流階級の人々の、むきだしの本音が露になるとともに、実際は本名すらも知らなかったエリの実像が、徐々に明確になっていく。安易に多用されがちなフラッシュバックの代わりに、空高く浮かぶ凧や、ぽつんと残されたエリのルイヴィトンのバッグの鮮烈なイメージが、取り返しのつかない時間の重みを、まざまざと印象づける。とりとめのない会話でやり過ごしながら、陰りのある笑顔の下に、漠然とした不安や孤独をひた隠す彼女たちの物語は、観る者ひとりひとりの物語として、抜けない棘のように鋭く突き刺さる。

 時代がどれだけ移り変わろうとも、男女の情愛は不変とばかりに、村木と名美のメロドラマを紡ぎ続ける無類の映画作家・石井隆。その最新作が、“何でも代行屋”を営む男の献身的な愛に、石井監督の理想の愛を重ねた『ヌードの夜』(93)の続篇にあたる『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』。どこを撮っても独特の空気がたち込める石井ワールドに飛び込むには、並々ならぬ度胸と覚悟が要求されるが、今回主役に挑む新人の佐藤寛子は、金のためなら人殺しも厭わぬ強欲母娘に扮した大竹しのぶ(『黒い家』99以来の怪演)、井上晴美ら、石井作品最強の歴代ヒロインによる重圧にも屈せず、母や姉に虐げられる気弱な小娘から、尽くす男の誠意すら踏みにじり、高らかに自己を叫ぶ悪女へと、見事に脱皮してみせた。

 意外な役柄で好感度を上昇させた『マグノリア』(99)でのアカデミー賞ノミネートに味をしめたのか、『コラテラル』(04)『ワルキューレ』(08)などでイメージチェンジを図るも、不完全燃焼に終わったトム・クルーズが、何を演じても彼自身になってしまうスターの宿命を逆手にとり、完璧すぎる無敵の男を快演した『ナイト&デイ』。腐れ縁の男女の身の凍るような顛末を演じた『バニラ・スカイ』(01)以来の共演となるキャメロン・ディアスとの相性もぴったりで、彼女のコメディエンヌとしての卓抜した才能に、負けじと喰らいつくトムが新鮮。謎だらけの凄腕のスパイと彼に引きずり回される女との、世界を股にかけた逃避行が、ボケとツッコミが目まぐるしく入れ替わる演技合戦の中で、ひねりの利いた恋愛劇へと、ゴージャスに展開していく。

 『かもめ食堂』(06)『めがね』(07)『プール』(09)に続く、小林聡美&もたいまさこ出演の『マザーウォーター』。一見、同じ系譜の中で語られそうだが、小泉今日子と市川実日子が主要キャストのためか、むしろ、三軒茶屋のアパートに集う人たちの悲喜こもごもの人間模様を綴った傑作ドラマ「すいか」(03)を彷彿とさせる。いずれは去るはずの仮住まいの人物たちが、適当な距離を保ちつつ関係を築いていた3作に対し、京都が舞台の今回は、彼女たちの中心にいる丸々と肥えた赤ん坊が、未来への希望であると同時に、ある地に身を落ち着かせねばならぬ枷にもなっている。それぞれの事情で京都に流れ着き、とりあえずは腰を据えようとする女たちの肝っ玉を見つめ、前3作のラインをなぞるフリをして、その実、逆行する本作で監督デビューを果たした松本佳奈。侮れぬ存在やもしれぬ。

 最愛のボーイフレンドを事故で亡くした大学講師の、かけがえのない特別な一日をリリカルに描き出し、一流ファッションデザイナーのトム・フォードが監督デビューを果たした『シングルマン』。16年もの月日をひとりの相手一途に過ごし、彼の死後も、その喪失感から抜け出せない男は、最低の気分で目覚めた朝、自らの死を決意するが、嫌っていた隣人や通りすがりの美男子、かつての異性の恋人らに触れ、自身と改めて向き合ううちに、リセットされた彼の目には、何気ない日常の光景が、いつもよりもまぶしく映る。過剰な美意識も邪魔して、死が遠ざかっていく中、彼の計画をただひとり見抜いていた教え子の青年(演じるのが、『アバウト・ア・ボーイ』02でお気楽な独身貴族の目を見開かせる少年を好演したニコラス・ホルトというのも興味深い)とともに迎える、最高に幸せで最高に悲しいエンディング。“最後の晩餐”の1本に選びたい、趣深い作品である。

(映画ライター 服部香穂里)

第56回 “偏愛映画”


 男女が出逢い、一目で恋におちる。そんな恋愛映画の王道が極めて成立しづらい時代にあって、ねじれた愛に翻弄される人々を追う作品は増加中。作り手たちは、手を変え品を変え、様々なジャンルを柔軟にまたぎつつ、多彩な愛を紡ぎ出していく。

 本家『世界の中心で、愛を叫ぶ』(04)を凌ぐほど、初々しい純愛を正攻法で描き切った『僕の、世界の中心は、君だ』(05)のチョン・ユンス監督が、実在した謎の天才絵師・シン・ユンボクに女の肉体を与えることで、名画誕生秘話に官能的な香りを施した『美人画』。男装の麗人と、その秘密を知る男との恋愛自体は、パターン化されていて新鮮味はないが、若い両想いのふたりに割って入る、ユンボクの絵の師匠の存在が、直球の悲恋ものに予期せぬスピンをかけ、大暴投ながらも、食いつかずにはいられぬ異色作に仕立てている。愛弟子への想いが師弟愛から恋情へと移行する中で、自制が利かなくなる師匠によって流される理不尽な血さえも、一枚の名画が生み落とされる布石として、怪しい輝きを放つのだ。

 6年前に逢ったきり、忘れることのできない“シルビア”の面影を、思い出の地で捜し求める男の彷徨を、緻密な企みに基づくドキュメンタリー的手法でミステリアスに捉えた『シルビアのいる街で』。カフェに入りびたり、会話に夢中な客の何気ない仕草や表情に目をやる彼の視界に、シルビアと思しき姿が入り込んだ途端、穏やかに停滞する時を刻む街の風景は、にわかに一変する。街の日常を形成していた歩行者や市電の往来は、ストーカーばりに彼女をつけ回す彼と、その気配を背中に浴びつつ先を急ぐ彼女との再会を、じらして先延ばしにする障害となり、来るその瞬間までのボルテージを、否応なく上昇させる。しこりを残したまま映画が終わると、その対象を見失った一方通行の視線は、観る者の記憶にも忍び寄り、忘れかけていた恋の痛みをうずかせる。

 今年のアカデミー賞外国語映画賞に輝いたアルゼンチン映画『瞳の奥の秘密』では、四半世紀前に起きた殺人事件の真相を解き明かしつつ、その当時に置き去りにされたままの登場人物たちの心の断片を拾い集め、ミステリーとラブストーリーが、時に反発しつつも、絶妙に絡み合っていく。虚しさを抱え続ける初老の主人公の、愛する女への未練と、合点のいかぬ終結を迎えた事件への執念が、妻を殺された夫の悲しくも衝撃的な秘密を明らかにし、その事実の重さが、逆に過去に囚われていた主人公をも突き動かす。ラストカットに漂う、それまでの凄惨な展開を忘れさせてしまうほどの幸福感は、想いを成就できぬままに歳を重ねてしまった人たちにとっての、希望の光のようにまばゆい。

 光と影、メジャーとマイナーとの間を行き来するがごとく、触れ幅の広い作品で知られる若き鬼才・李相日監督の、『フラガール』(06)以来の長篇となる『悪人』は、前作とは180度異なる、ダークな魅力に満ち満ちた傑作。吉田修一の原作では、敢えてぼかしていた“悪人”像を、実力派俳優陣がリアルに肉付けすることで、衝動的に人を殺してしまった男と、自らの意志で彼に同行する三十路女との、あてどない逃避行のメロドラマ性が、一層純度を増している。出逢うのが遅すぎたふたりの捨て身の恋は、ささいな自尊心や劣等感、強がりやうぬぼれなどが、何者にも潜む悪なる性質を呼び覚まし得ること、それを阻止できるのは、失いたくない大切なものの存在であることを、切なく痛感させるのである。

(映画ライター 服部香穂里)

第55回 “死語の世界”


 かつて、“死語”なんてやるせない言葉を創造した人は、言葉自体がないがしろにされつつある今のような時代の到来を、想像していただろうか。人が用いることによって初めて存在意義を発揮できる言葉のうち、殺されたり、自らフェイドアウトしたり、死んだことすら顧みられなくなった言葉たちに想いを馳せるにつけ、急激に進化を遂げた社会の片隅で、失われていった大切な何かが、浮き上がってくる。

 床下に住まわせてもらっている屋敷から、必要なものを少しづつ、バレない程度に借りて生活している小人の少女と、その家に病気療養に訪れた人間の少年との束の間の交流を描いた、スタジオジブリ最新作の『借りぐらしのアリエッティ』。死を常に意識しながら、滅びゆく種族としての小人と自分の運命とを重ね合わせる少年に対し、活発な少女をはじめとする小人一家は、小さな身体全体から生命力を漲らせながら、借りて来たものひとつひとつを工夫して丁重に扱い、日々を幸福に過ごしている。そんな彼女たちの、つつましくも充実した暮らしぶりは、肥大し続ける所有欲にかられる人間に静かな警鐘を鳴らし、あるものを育む自然、それを丹誠込めて作り出した人たちへの畏敬の念を思い起こさせ、しょせんは生まれてから死んでいくまでの“かりそめの”人生を、有意義に過ごす秘訣を伝授してくれる。

 『ヨコヅナ・マドンナ』(06)では、シビアな現実にもまれつつ、性のグレーゾーンでたゆたう主人公を温かく見つめたイ・ヘジュン監督が、死に損なって無人島に流れ着いた男と、望遠鏡越しに覗く彼から目が離せなくなってしまった引きこもり女との、一見不健全、しかし、当人同士には真剣そのものの“純愛”が始まるまでを丹念に追う『彼とわたしの漂流日記』。コミュニケーション・ツールが異様に発達しているがゆえに、その反面、人間関係が希薄になってしまいがちな現代社会にあって、それぞれに孤立した男女が、砂に書いた文字、ビンに入れた舌っ足らずなメモを交わしつつ、あまりにもじれったいが精一杯に想いを伝え合う。“難病”など、純愛を手っ取り早く成立させるのに都合のいいカードは切らず、一度は人生に背を向けたふたりが、かすかな希望を頼りに自らの殻を打ち破っていく様を、腰を据えてじっくり見守り続ける監督の粘り強い演出眼も、実に頼もしい。

 16歳の妊婦の胸の内を、独特のユーモアと卓抜した洞察力で生き生きと綴った『JUNO/ジュノ』(07)で、アカデミー賞脚本賞など数々の賞に輝いたディアブロ・コディ。女の子同士の“不滅の”友情が魅力のひとつでもあった、この鮮烈なデビュー作の次に彼女が脚本を手掛けたのが、難しい年頃の女の子の心の奥底に眠る虚栄心や悪意など移ろいやすい感情を、ホラーというジャンル映画の中でユニークに暴発させた『ジェニファーズ・ボディ』。ある悲(喜)劇を機に、男を餌食に美しく変貌し続けるジェニファーと、幼い頃から彼女の陰に隠れ、複雑な想いを抱えてきたメガネっ娘との友情の崩壊、その後のガチンコ対決と、それでも消せない絆が、懐かしのホラー作品の数々にオマージュを捧げながら、大量の血が乱れ散る恐怖と爆笑の渦の中で、ダイナミックに描かれる。

 たった今もどこかで紛争が起きている世界情勢にあって、“ラヴ&ピース”なんざ誰も信じちゃいないが、事実は小説より奇なりを地で行く仰天の実話を、ほぼ忠実に映画化したとされる『ヤギと男と男と壁と』は、傍からはアホらしく映ることでも、ひたむきに信じ続ければ、世の中少しはマシになるかもしれない・・・・・・と、明らかに間違っているポジティヴな思考を強引に導き出す、相当ヤバいが妙にいとおしい作品だ。闘わずして平和を取り戻すべく、透視や予知、壁を通り抜ける力などを本気で鍛え上げる、実在した極秘超能力部隊の奇天烈な構成員を、ジョージ・クルーニー、ジェフ・ブリッジスら超メジャー級の実力派が、いつにも増して生真面目に演じることで、そこはかとないおかしみと、夢破れても要領よく生き方を変えられないダメ男たちの切なさが、うさん臭さ満点の設定をするりと抜け、意外なほど純粋に迫ってくる。

 『隠し剣 鬼の爪』(04)、『武士の一分』(06)と、これまで山田洋次監督の手で映画化されてきた、藤沢周平原作の『隠し剣』シリーズであるが、そこに新たに加わった『必死剣 鳥刺し』のメガホンをとったのは平山秀幸監督。『ザ・中学教師』(92)、『ターン』(00)など、うごめく心情を、一見ストイックな映像表現に木目細かく織り上げた作品群で知られる平山監督ゆえ、ハートウォーミングな余韻を残す山田作品とは一線を画し、ひんやりした肌触りのすぐ下で熱い血潮が煮えたぎるような力作となった。妻を亡くし失うものなど何もない剣の達人の、死を覚悟の上での決断が、徐々に波紋を広げ、渾身の必殺技・鳥刺しが繰り出される壮絶なクライマックスへとなだれ込む。死と引き換えにしてでも譲れぬもののため、人並みの感情を押し殺し、目の前に立ちはだかる者と斬り結ばねばならぬ武士の悲痛な宿命が、原作にはない“雨降らし”によって濃厚に際立ち、平山監督と主演の豊川悦司の尋常ならざる意気込みが実を結んだ圧巻の殺陣を、一層忘れ得ぬものにしている。

(映画ライター 服部香穂里)

第54回 “華麗なるミスマッチ


 このタイトルだけはどうにも腑に落ちないのだが、アガサ・クリスティの「ホロー荘の殺人」を、現代のフランスを舞台に移して映画化した『華麗なるアリバイ』は、ミステリーとしてのみならず、愛や欲、嫉妬に駆られた男女が織り成す群像劇としても、ラストまで興味を途切れさせることのない、噛み応えのある作品だ。原作に登場する、かの名探偵ポワロの存在をカットしたことで、それぞれに厄介な事情を抱えた登場人物たちを、推理という枠のみに縛られずに俯瞰で捉えることができ、シーンごとに微妙に変化する人物間の関係性が、人間ドラマに厚みを増している。実力派のキャストたちも、これまで自身が演じてきた役柄を踏襲しつつも、それを自ら裏切る余白のある芝居で観る者を混乱させ、心地よい不協和音を奏でているのも、一興である。

 忍者ものという時代劇の中で、敢えて現代社会論を展開しようとする、なかなかに野心的で真摯な意欲作が『忍邪』。腹にイチモツ抱える上忍(ジェリー藤尾、ふてぶてしい怪演)から、得体の知れない謎のミッションを受けた3人の下忍に、合田雅史、虎牙光揮、永倉大輔というバックボーンの全く異なる俳優陣を配し、それぞれの個性を、性格から戦法までバラバラのキャラクターに反映させながら、時に優雅に、時に荒々しく、バラエティに富む“魅せる”アクションシーンの中で、明快に映し出す。終盤に入るにつれ、上からの命令は絶対で、それを遂行することでしか存在意義を認められない捨て駒としての下忍の悲哀が、色濃くなってゆく。3人のかたわらで、事の一切を見つめる孤高の人間兵器・柏原収史のアンニュイなまなざしの奥にはシンパシーが宿り、必死に幸せを掴もうと手を伸ばす合田の姿に、シビアな世を泳ぎ続ける現代人が重なって見える。

 ゾンビものという確固たるジャンル映画に敬意を表しつつ、食い合わせの悪そうな様々な要素を貪欲に盛り込み、切なくも心温まる笑いあり、涙ありの、ごった煮エンタテインメントの快作に仕上げてしまった『ゾンビランド』。自ら課したルールに忠実すぎる引きこもり青年、ズバ抜けた身体能力で次々とゾンビを始末していくゾンビハンター、他人を一切信用しない詐欺師姉妹と、本来であれば接点のあるはずのない4人が、人類の大半がゾンビ化してしまった極限下で出逢い、ゾンビがいないと噂される楽園を目指して旅をする。いつ訪れてもおかしくない死の恐怖に怯えるよりも、ささやかな喜びを思い切り楽しむ彼らの、開き直りにも似たポジティブさに、学ぶところ多し。本人役で出演している某スターの、爆笑必至の自虐ぶりも、あっぱれの一言。

 現代にタイムスリップしてしまった侍が、パティシエに・・・・・・と、単なる思いつきにも見える『ちょんまげぷりん』のプロットだが、生真面目な侍気質と、緻密な工程を要する菓子づくりとは意外に相性がよく、ちょんまげ結わえた錦戸亮が、刀をパレットナイフに持ち替え、作業に没頭する寡黙な姿には、武士の殺気と色気が漂う。『チーム・バチスタ』シリーズや、伊坂幸太郎原作の映画化を数多く手掛け、作品の評価、興行ともに着実な成果を上げている中村義洋監督だが、微妙にねじれたパラレルワールドに迷い込んだ姉弟の成長を温かく見守る『ルート225』(06)や今回のように、地面から数センチふわりと浮き上がったようなファンタジーにこそ、中村監督ならではの伸びやかな手腕が発揮されるように思う。時代を超えたお侍さんが、シングルマザーと保育園児の息子に遺してくれた、心憎いプレゼントも、甘すぎず苦すぎず、正に極上プリンの味わいである。

 闘争本能の著しく欠如したバイキングの少年と、傷を負い飛べなくなったドラゴンという、半端者同士の奇妙な友情が胸にしみる『ヒックとドラゴン』。『リロ&スティッチ』(02)を生み出した監督らしく、未だ根強い人気を誇るスティッチにも何気なく似ている愛嬌たっぷりなドラゴンの、目まぐるしく変化する豊かな表情、コミカルな行動が、少年との友情物語を、ユニークに盛り上げる。人間がドラゴンを飼い馴らすのではなく、相互に足りない部分を補完し合うという、新しい形の対等関係が、見事に映像として凝縮されているのが、アクロバティックな飛翔シーン。その一体感がもたらすカタルシスは特筆に値し、後に少年を襲うことになる、子どもに向けたアニメーションにしては少々ヘヴィーな運命にも、ふたりでひとりの彼らの絆を一層深めるであろう、希望のようなものを予感させる。

(映画ライター 服部香穂里)

第53回 “下下下の下”


 ここ数年、NHKの連続テレビ小説には何ら興味をもてなかったが、現在放映中の「ゲゲゲの女房」は、毎朝、チャンネルを合わせている。あの水木しげるの奥方の実話がベースなので、売れない漫画家時代の貧乏暮らしでさえ、後に大成功を収める事実を盛り上げるための前菜として、キラキラまぶしく映るところがミソ。と、同時に、出口の見えない不況の只中で、物書き稼業の底の底であえいでいる身には、切なくもなるのだが・・・・・・。

 酒に溺れ、今やドサ回りの歌手にまで落ちぶれた伝説のシンガーソングライターと、幼い息子のいる若いシングルマザーの記者との、あまりに不器用な恋愛模様が心にしみる『クレイジー・ハート』。不健康な身体を敢えていじめるかのように、酒をあおり続けるアル中のダメっぷりは、呑んべえにとっては他人事と思えぬ、下戸には嫌悪感を覚えるリアルさだが、ミュージシャンとしての才能という唯一の長所にして最強の武器が、母親としての理性と女としての本能との間で揺れ動く記者のみならず、世の乙女心をかき乱すのである。本作で今年のアカデミー賞主演男優賞を獲ったジェフ・ブリッジスの、たとえば『レスラー』(08)のミッキー・ロークなどとは一線を画す、ある種の余裕すら感じさせるスマートな役作りにより、ほろ苦くも風通しのよい、大人のための寓話に仕上がっている。

 昨年、『愛のむきだし』『プライド』などで、生に貪欲なヒロインを全身全霊で熱演し、数々の映画賞を受けた満島ひかりだが、今年は一転、安藤モモ子監督の恐るべき処女作『カケラ』に次ぎ、PFF出身の期待の新鋭・石井裕也監督の『川の底からこんにちは』でも、周囲に流されるまま生きる受け身な主人公を、燃える女優魂は抑えめに、飄々と体現している。二言目には“でも、しょうがないですよね”と、自己弁護に走る、夢や希望、それを叶えるための努力一切を放棄してきたOLが、父の病気で、沈みかけた実家のしじみ工場を継ぐ羽目になる。所詮は“中の下”に過ぎない自分の不甲斐なさを見つめ直した上で、とにかくガムシャラに頑張るしかないという石井監督流の人生哲学は、俗に言う“格差社会”なる定義そのものにも揺さぶりをかける、ユニークな説得力に満ちている。

 太陽は姿を見せず、文明も失われ、飢えと寒さが支配する荒廃しきった世界を、ひたすら南に向かう父と息子の旅を、時に生々しく、時に幻想的に映し出した『ザ・ロード』。設定こそ架空のものではあるが、『イースタン・プロミス』(07)に続き、またしても全裸をカメラの前にさらすマゾ気質なヴィゴ・モーテンセンの、痛々しいまでに骨ばった背中が、人が人を食う極限下で“善き者”であり続けようとすることの崇高さや矛盾、気丈な妻(シャーリーズ・セロン、わずかな出演シーンながら印象的)を独り死なせてしまった罪悪感をヒリヒリと漂わせ、新世紀を迎えた今も、一層混迷を極める現代の壮大なカリカチュアともとれるリアリティを生む。父子が遭遇する目の不自由な老人が何気なくつぶやく、“免れ得ない死を自ら選びとることは、贅沢である”との厳粛な人生観に、果てなき絶望の先で光る、ごくごくかすかな希望が見える。

 今年のベルリン国際映画祭で、主演の寺島しのぶが最優秀女優賞に輝いたことでも話題となった、若松孝二監督待望の新作『キャタピラー』。戦地で言葉や四肢を失っても、性欲、食欲益々旺盛に、帰還した故郷で“軍神”と崇められる、キャタピラー=芋虫は、戦争の傷跡は永遠に消えることなどないことを、グロテスクなほどまざまざと見せつける。社会の底辺で身動きとれずにいる男女の命懸けの道行きを描く『赤目四十八瀧心中未遂』(03)でも共演した、寺島しのぶ&大西信満(『赤目』当時は‘滝次郎’名義)は、今回も抜群のコンビネーションを発揮しているが、『赤目』では常に寺島主導で物語が展開していたのに対し、本作では、生ける軍神として暴君のように振舞う夫と、甘んじて欲望のはけ口となる従順な妻という夫婦関係が、次第に逆転、破綻していく様が、徐々に浮き彫りとなる凄惨な戦争の実像とともに、演技の枠を超えたふたりの壮絶な身体表現を通して、スリリングで濃密な84分に刻みつけられている。

(映画ライター 服部香穂里)

第52回 “ビフォー<アフター”


 BS、CSなどを通して、昔の映画やTVドラマが昼夜問わず放映されている昨今、恵まれている反面、役者たちにとっては、かなり酷な状況であるとも言える。ついさっきまで観ていた若かりしスターが、TVショッピングで大袈裟に相槌を打っていたり、健康の秘訣やら保険の重要性やらをCMで熱心に説いたりしているのだから。仕事ゆえ仕方のないことと理解しつつも、容易に時代を行き来できてしまう視聴環境で、複雑な気持ちに駆られることもしばしばだ。

 しかし、地道に年齢を重ねて変化していく役者たちを、リアルタイムで追跡するのもまた、“観る”楽しみのひとつである。『E.T.』(82)の主人公のキュートな妹役で、日本でもブレイクしたドリュー・バリモアが、満を持して初監督を手掛けた『ローラーガールズ・ダイアリー』は、幼い頃から大人に囲まれた芸能界の中で闘い、傷つき、逆境をはねのけ、第一線で活躍を続ける彼女だからこそ撮れた、イキのいい佳篇である。年齢を偽り、遥かに年上のオトコマエなお姉さま方にもまれ、母親との確執なども経て、ローラーゲームの世界に居場所を見つけるヒロイン(『JUNO/ジュノ』07の16歳の妊婦に続き、エレン・ペイジ快演)は、子役から大人の女優へと進化を遂げたドリューの分身のようでもあり、懐かしの女子プロレスを彷彿とさせたりもする、生傷の絶えないハードな競技をダイナミックに撮るにあたり、ドリュー自ら“当たり役”なる強烈な愛称をもつ選手を、体当たりで演じているのも素敵だ。

 アメリカ帰りの野球少年が、日本のチームメイトと衝突しながら、リトルリーグ世界大会を目指す『僕たちのプレイボール』は、容姿、野球の腕前、演技力などなど、起用理由は様々であろう子どもたちの、ひたむきにプレーに取り組む顔が、実にまぶしい。そんな中、肩を壊してメジャーリーガーからマイナー落ちの憂き目に遭い、妻と息子を日本に帰した後も、メジャーで投げることにこだわり続ける崖っぷちピッチャーを演じるのが吉田栄作。かつて、平成の御三家として人気を誇っていた頃、ビッグになるためアメリカに渡るも、志半ばで日本に戻って来た彼のキャリアが頭をよぎって切なくもなるが、GパンにTシャツ姿でブイブイ言わせていた絶頂期よりも、いい風にくたびれた現在の彼の方が、ずっと魅力的だ。ちなみに、製作に名を連ねているあの新庄剛志が、裏方に徹して、子どもたちひとりひとりに熱血指導する様子が映し出されるエンドクレジットも、清々しい見どころである。

 歌って踊れるアイドルスターとして90年代を駆け抜けた後、黒澤明の『姿三四郎』(43)に珍妙なオマージュを捧げたジョニー・トーの真骨頂(?)『柔道龍虎房』(04)から、ギャンブル狂いで妻には去られ、ともに残された幼い息子との距離も埋められないダメ親父を哀感たっぷりに演じた『父子』(06)まで、バラエティに富む作品で演技派へと脱皮したアーロン・クォックが、脚本に惚れ込み出演したという『殺人犯』。連続殺人事件を追う刑事が、自らの記憶をたどるうちに、忌まわしい真相が浮かび上がる展開に、公開中の『シャッター・アイランド』のごとき哲学的な作品かと思い観ていると、予想だにしなかった仰天の結末に、思わず失笑・・・・・・もとい、失神寸前に。アーロンの脚本選択眼が確かか否かはこの際置いておいて、名ダンサーとしてならした身体能力の高さを存分に活かし、何者かに怯え、のた打ち回る彼の一挙手一投足が圧巻だ。撮影にリー・ピンビン、音楽に梅林茂と、一流どころのスタッフを迎えた上でのB級テイストも、香港映画ならではである。

 あの柄本明が初監督を務めた(その後、監督作がないのが残念)怪作『空がこんなに青いわけがない』(93)での夏川結衣の登場は、正に衝撃であった。不倫相手の上司・三浦友和のつれない態度に怒り、ミニスカートにハイヒールで街中を爆走したかと思うと、路上で大声で泣きわめき、逆に三浦にしつこくされると、冷たくあしらい翻弄しまくる、最狂OL・かおる。しかし、夏川の名が世に広く知れ渡ったのが、「青い鳥」(97)の薄幸な人妻役だったためか、自虐的コメディエンヌとでも呼びたい独特の個性を発揮できる場になかなかめぐり逢えずにいたが、阿部寛と絶妙の掛け合いを見せた「結婚できない男」(06)以降は、世のアラフォー・ブームとやらにも乗り、彼女らしい役どころが増えてきたのは嬉しい限り。最新作『孤高のメス』では、赴任したての型破りな名医に惹かれ、看護師としての情熱を取り戻していくシングルマザーを繊細に演じる。医者と看護師が、医療器具を通して心を伝え合うリアリティ豊かな手術の場面には、ラブシーンの趣さえ漂うが、彼女の秘めた想いがプラトニックなものであるからこそ、都はるみを隠し味にした、クライマックスの“告白”シーンが、一層胸を打つのかもしれない。

(映画ライター 服部香穂里)

第51回 “イントゥ・ザ・眼中”


 見るからにイマドキな茶髪の兄ちゃんが、見るからに頑固そうなご老人の激しい抵抗に遭いながらも、正面から向き合い、着替えさせようと奮闘している。『ただいま それぞれの居場所』は、介護される側にとっての心地よい場所を、様々なケースから模索すると同時に、そこが、介護する側にとっても、必要とされる充足感に満ちた場所であることを、さりげなく映し出す。他人と直接触れ合わずとも、それなりのつながりを得られる今のご時世にあって、それぞれの事情や覚悟を抱え、敢えて介護ビジネスに飛び込んだ若者たちの眼差しは、身体の自由が失われても、記憶が混濁しても、命ある限り輝きを放つ人間の尊厳を、真摯に見つめ続ける。

 連戦連勝の剣道の達人・成海璃子が、たった一度、逃げ足だけは速い北乃きいに偶然敗れてしまったことから、物語が転がり始める『武士道シックスティーン』。狙った獲物は捕らえるまで離さぬコミカルなまでに強烈な目力をもつ成海に、宿敵として“ひと目惚れ”されてしまった北乃にとっては、不運な災難にも近いねじれた片想いも、古厩智之監督の手にかかると、時に胸を締めつけられるような切実さをたたえた、青春映画に生まれ変わる。面で顔を覆うという、十代きっての実力派女優対決となるアイドル映画としてのハンディをも逆手にとり、その隙間からキラリと覗く眼光に、対照的なふたりの個性を炸裂させる古厩監督の巧みな演出にも1本とられる、清々しい好篇だ。

 死に到る謎のウイルスが蔓延した世界で、兄弟、親子、恋人、赤の他人が互いに関わり合ううちに、予期せぬ極限状態へと追い込まれていく『フェーズ6』は、不穏な時代を反映してか、近年量産されている派手なバイオハザードものとは一線を画し、答えの出ない究極の選択が次々と投げかけられ、次第に人間性が蝕まれていく過程を、昨年の新型インフルエンザ騒動の苦い記憶をも呼び覚ましながら、淡々とリアルにあぶり出す。誰しも免れることのできない死の運命を少しでも先延ばしにしようと、無様なまでに悪あがきしてしまう、人間という救い難い生きものが、命と引き換えに何を得て、何を失ったのか。重苦しい結末が、ズシリと身に響く。

 数々の優れた喜劇を世に遺したモリエールが未だ売れない役者だった頃、ベールに包まれた空白の時代にスポットを当てた『モリエール 恋こそ喜劇』は、あり得たかもしれないフランスの喜劇王の誕生秘話を軸に、喜劇からは哀しみを、悲劇からはおかしみを抽出し、泣き笑いに彩られた人生賛歌を、華麗に紡ぎ出す。劇作家の立場でシニカルな目を向けてきた上流社会に、わけあってニセ司祭として潜入する羽目になったモリエールは、傍からは滑稽に見える人生も、当人は真剣そのもので、それゆえに愛おしいのだと実感していく。自信喪失気味の彼の背中を押してくれた、美しいマダムとのほろ苦い恋物語と、モリエールを生き生きと現代に甦らせたロマン・デュリスの示唆に富む表情が、絵に描いたような大団円に、深い陰影をもたらす。

 CMディレクターとして活躍するかたわら、演劇界の異才・本谷有希子のむき出しの自意識を斬新に映像化した『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(07)で、映画界にも鮮烈にデビューした吉田大八監督が、最新作『パーマネント野ばら』では、漫画界の異端・西原理恵子という難物に挑む。カットごとにタッチを繊細に描き分け、生々しいプロットをも、リリカルに昇華させてしまうサイバラ・ワールドを彷徨するヒロインに、ホラークイーンを怪演した『富江』(99)、生の気配を消して文楽の人形に成り切った『Dolls』(02)などで、“器”の強靭さを見せつけた菅野美穂は打ってつけで、『時をかける少女』(06)、『しゃべれども しゃべれども』(07)などで知られる奥寺佐渡子の脚本のしとやかさと、吉田監督の攻めの演出も、絶妙な均衡を保つ。常に彼岸を見つめるがごとき菅野の視線の先にあったものと、それよりも大切な眼前の宝物が、彼女の瞳にささやかな光を灯すエンディングに、原作のエッセンスが、見事に凝縮されている。

(映画ライター 服部香穂里)

第50回 “血は水よりも…”


 昨年から今年にかけて、『トワイライト』シリーズ、『30デイズ・ナイト』、『渇き』、『ダレン・シャン』など、ヴァンパイア映画の公開が後を絶たない。もっとも、『渇き』のパク・チャヌク監督などは、これまでの作品の中でも何度となく示してきた“血”への並々ならぬ執着が、今回、血と不可分のヴァンパイアという題材を得て、水を得た魚のごとく、聖職者と人妻との危うすぎるメロドラマに、嬉々として血の雨を降らせているのだが…。

 一口にヴァンパイアものと言っても、最近のそれらが、いわゆるジャンル映画としての正統派からは相当逸脱しているように見えるのは、恋愛や青春など、オーソドックスなテーマをストレートに語ることが難しくなった時代の仕掛けとして、ヴァンパイアが重宝されているという事情もあるのかもしれない。血とは、それだけで様々なことを雄弁に物語るのだから。

 オーストラリア出身の監督、韓国の大スター・Rain(ピ)を主演に迎えた“ニンジャ”ものでありながら、主人公の名前が雷蔵(『忍びの者』62!)など、半端ない流血量のかたわら、孤独な“抜け忍”のストイックさに貫かれた本格的“忍者”映画でもある『ニンジャ・アサシン』。孤児を殺人兵器に育て上げる無慈悲なゴッドファーザーに扮するショー・コスギのあまりのハマリように、常にどことなく自信なさげな実の息子・ケイン・コスギに思わず同情してしまうほどだが、重力まであっさり超越するワイヤーワークに頼り切った近年のアクション映画とは違い、腕におぼえのある面々の生身の肉体を通した壮絶なバトルは圧巻。そんな彼らに負けじとハードなトレーニングを積み、ケインの代わりに(?)血のつながりのない父に闘いを挑むRainの頑張りにも、拍手を送りたい。

 水は生命の源であり、血と紙一重であると改めて実感させられるのが『ブルー・ゴールド:狙われた水の真実』。水不足に対する認識の甘い日本人にとっては、“水戦争”なんざ、それこそ寝耳に水の話題であるかもしれないが、世界中の水面下では、将来の水危機を見据えた水資源の奪い合いが起き、その争いをめぐり実際に死者まで出ているといった衝撃の事実が、永遠の反逆児・マルコム・マクダウェルの語りと専門家の証言からなるシンプルな構成により、次々と明るみに出される。たかが水、されど水の使い方ひとつに、その人の生き方まで問われることを鋭く突きつけてくる、決して他人事とは無視できぬ吸引力をもったドキュメンタリーである。

 日本での封切は前後したが、世の無常をはかなむウディ・アレンの人生哲学が、軽妙な喜劇の体裁を隠れ蓑に炸裂した傑作『それでも恋するバルセロナ』(08)の前に撮影されたのが、『ウディ・アレンの夢と犯罪』。成功を夢見た兄弟を転落へと導くのが、一族の輝ける星であったはずの伯父の存在で、身の程をわきまえずに、こちら側とあちら側とを隔てる境界を侵すことをヨシとしないウディに成り代わり、悪魔のささやきによって兄弟を翻弄し、ふたりを血のジレンマへと陥らせる。人間は生まれながらに平等などではなく、万人に等しく訪れるのは死のみであるということを、湿りけを帯びたロンドン南部を舞台に淡々と見つめるウディの視線には、成功者としての教訓めいたシニカルさよりも、運命に抗えない兄弟に自身を重ねる共感まじりの哀感が、色濃くにじんでいる。

 俳優として地道に活動してきたヤン・イクチュンが、自ら主演も務めて監督として初の長篇に挑み、私財を投げ打ち完成に漕ぎつけた渾身の力作が、『息もできない』。彼にとっては、映画を撮ることイコール、自身の過去の傷と真摯に向き合い、それらを鋭くえぐり出す行為であり、ヤクザ者と女子高生との魂の彷徨を描く本作全篇にわたり、見えない血しぶきが飛び散るかのような痛切さに満ち満ちている。家族の愛を得られぬまま社会からはみ出してしまった者同士が、その欠如を埋めるがごとく身を寄せ合うも、その手に掴みかけていた理想と、逃げ出しても追いかけてくる現実とが、残酷なほど見事に交錯するラストシーンは、正に息もできないほどに、観る者の胸を強く締めつけるのである。

(映画ライター 服部香穂里)

第49回 “別れる理由”


 年末年始とバタバタしていたら、いつの間にやらバンクーバー五輪のシーズンに。先日発表された今年のアカデミー賞のノミネーションでは、最多9部門で候補に挙がる「アバター」のジェームズ・キャメロン、「ハート・ロッカー」のキャスリン・ビグロウという、かつての夫婦対決の様相を呈しているが、この対照的な両作を観比べると、夫婦関係が破綻したのも、何となく腑に落ちる気がする。片や、劇場内に架空の衛星を現出して見せた上、そこで甘いロマンスまで展開させる前者に対し、イラクにて爆発物処理を任務とする野郎たちのハードな日常に、観客をも否応なく引きずり込む後者。お互いに才能を認め合いながらも、映画に求めるものや、恐らく人生観などに到るまで、方向性の異なるカップルだったであろうことは、想像に難くない。

 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は、思い込みが激しく命懸けで、不器用な愛し方しかできない三十路目前のモテナイくんと、そんな彼の熱い想いを信頼して応えたいと願う一方で、ズルズルと別の相手とも関係をもってしまう厄介なOLとの、暴走しっぱなしの破れかぶれな恋模様が、意外なほど温かいタッチで綴られていく。ハチャメチャだが憎めないダメ男を丸ごと生き切った峯田和伸、傍迷惑な愛に翻弄されながらも思わせぶりな仕草で翻弄し返すしたたかさも併せもつ、童顔な魔性の女をあっけらかんと怪演した黒川芽以らの好演もあり、ややもすると後味の悪い痴話噺で終わってしまうところを、“下品で何が悪い!”と開き直りにも似た強引さで、滑稽だが妙に爽やかな、モラトリアム世代の青春映画に着地させている。

 相次ぎ公開された『ココ・シャネル』(08)、『ココ・アヴァン・シャネル』(09)は、かのガブリエル・シャネルの、孤児からお針子を経て名声を得るまでの波乱の生涯を、男性遍歴を交えて描くサクセス・ストーリーの趣が強かったが、『シャネル&ストラヴィンスキー』は、既に有名デザイナーとしての地位を築くも、最愛の男性を亡くしたばかりのシャネルと、先鋭的過ぎた「春の祭典」の初演で、保守的な観客を激怒させた作曲家・イゴール・ストラヴィンスキーとのスリリングな関係を、濃密に見つめる。ストラヴィンスキーの才能に惚れ、田舎の別荘を提供するシャネルと、彼の病弱な妻や4人の子どもたちも交えての、異様な共同生活。才気溢れる男女が同じ屋根の下で過ごすとなれば、その先は言わずもがなだが、夫を献身的に支え続ける妻の神々しい存在が、ふたりに重くのしかかる。天涯孤独ゆえの苦労と自由とを武器に生きてきたシャネルと、芸術家で、夫で父親でもあるストラヴィンスキーとの秘めた愛は、奇しくも同じ年に人生の幕を降ろすことで、ようやく成就し得たのかもしれない。

 大林宣彦監督の『時をかける少女』(83)は、06年の細田守監督のアニメーション版も、そして今回、数々の名監督に就き、満を持して長篇デビューを果たした谷口正晃監督版も、通常のリメイクとは一味違い、物語の“その後”を引き継ぐ形で自由に発想を膨らませながら、オリジナル版に流れる精神を現代へと甦らせることにも成功している、実に稀有で幸福な作品だ。未だ多くの後進たちのインスピレーションをかき立て続けているのは、ヒロインの芳山和子が、未来から再び彼女に逢いに戻って来た深町くんに気づかずすれ違ってしまった、オリジナル版のラストのほろ苦い余韻だろう。それゆえ、和子のひとり娘・あかりをヒロインに据えた今回の谷口監督バージョンにも、あかり役を快演する仲里依紗の溌剌とした佇まいに似合わず、“別れの予感”が不穏に付きまとう。母親の願いを叶えるため、過去にタイムスリップした娘は、かつての母親と同じく、狂おしいほどのときめきと悲しみ、それすら忘れてしまうことの痛みを、観客とともに味わうことになるのだ。

 ヌーヴェルヴァーグの先駆者的監督だったジャン=ピエール・メルヴィルの、日本初公開となる幻の処女作『海の沈黙』(47)は、ドイツ占領下のフランスで、あるドイツ人将校が、半年間ともに過ごした老人とその姪の家を後にする場面から始まる。フランスびいきの音楽家でもある将校は、希望に満ちたまなざしで、両国の戦争の理想的な在り方を熱っぽく語り続け、老人と姪は、そんな彼など存在しないがごとく淡々と振舞い、沈黙を頑なに貫くことで、ドイツ軍への抵抗の意志を示す。将校の人並み外れた純真さは、時折ふたりの心を動揺させ、敵としての緊張感と、同居人としての親しみとが混じり合う一室には、奇妙な絆のようなものさえ芽生え始めるが、やがて、己の無知におののき、醜悪な戦争の真実に打ちのめされた将校は、ふたりに別れを告げる。正にその時、後にヌーヴェルヴァーグを代表するカメラマンとなったアンリ・ドカが捉えた姪の決然とした表情が、彼女のたった一言で沈黙が破られる瞬間を劇的に映し出し、映画におけるクローズアップの威力を、静かに証明している。

(映画ライター 服部香穂里)

第48回 “アバターもエクボ?”


“3D映画元年”と、一部で盛り上がった(ホンマに?)今年も、残すところあとわずか。その真打ちとも言えるのが、ジェームズ・キャメロン監督久々の長篇『アバター』。全貌を知るには、今月23日の公開を待たねばならないが、常にテクノロジーの最先端を走り続けてきたキャメロンだけに、新たな地平を切り拓くのは確実だろう。大ヒット作『タイタニック』(97)では、薄っぺらな人物造形の弱点を、ケイト・ウィンスレットの感動的なまでの肉体の強靭さでカバーして余りあったが、今回は『エイリアン2』(86)以来のタッグとなる、スーパーヒロインの元祖・シガーニー・ウィーバーの登板にも、期待は募る。

 とは言え、3D映画自体には、正直、あまり興味がもてない。あらゆる分野のスペシャリストたちが、各々のアイディアを闘わせながら、2Dのスクリーン上に、3Dの空間を現出して見せるところに、映画という文化の発展があったはずで、そこに、一口では語れない複雑な人物を紛れ込ませることにより、さらなる奥行きが作品にもたらされる。飛び出る映像に呑まれるのではなく、一見平板なスクリーンに映し出される世界に、知らず知らずのうちに引き込まれてしまうことこそが、映画の醍醐味ではないかと・・・。

 大人へと足を踏み入れようとしている子ども時代の終わりを、温かく見つめた『モンスターズ・インク』(01)のピート・ドクター監督は、新作『カールじいさんの空飛ぶ家』では、人生のフィナーレを迎えつつある男の命懸けの冒険を、映画黄金期にオマージュを捧げながら、最新の技術も巧みに取り入れ、スケール感たっぷりに描く。ピクサー初の3D映画としても注目を集めているが、あくまで2Dを基本においた木目の細やかさが、ピクサーたる証。名優・スペンサー・トレイシー似の偏屈じいさんと、朝青龍似のおしゃべり坊主との凸凹コンビによる珍道中も微笑ましいが、何よりも素晴らしいのが、カールとその妻・エリーとの、喜びも悲しみも分かち合い、ともに老い、ひと足先に妻が旅立つまでの愛に満ちた日々を、美しいテーマにのせ流麗に綴った、10分間のシークエンスである。ささやかな幸せの想い出と、叶えられなかった夢への未練が、台詞抜きのサイレント映画のような趣に編み込まれ、胸の奥にじんわりと広がる。

 カールとエリーの熱々ぶりとはまるで異なるが、韓国のドキュメンタリーとしては異例のヒットとなった『牛の鈴音』では、夫に対して悪態をつき続ける妻に、結婚60余年を経た老夫婦ならではの愛のかたちが見える。30年もの間、重い荷物を運び、田畑をともに耕してきた働き者の牛(♀)に、家族やパートナー以上の信頼を寄せる夫は、彼女が死んだら後を追うとまで言い放ち、そんな“恋敵”にジェラシーにも似た複雑な想いを抱く妻は、ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、夫なしには生きていけないと、切ない乙女心を吐露する。

夫婦と牛とのゆったりとした歩みを象徴するかのごとく、牛の首にかけられた鈴の音が、全篇にわたり断続的に響きわたり、それがパタリと鳴り止む時、『無法松の一生』(43)の人力車の車輪が松五郎の死を暗示したように、牛の命の灯も静かに消える。15年とされる寿命を遥かに通り越し、40年もの生涯をまっとうした牛に代わり、いつまでも耳に残る鈴の余韻が、ふたりきりとなった夫婦の第二の人生を、そっと後押しするのだ。

 クール・ビューティーなクリスティン・スコット・トーマスの、ややもすると取っ付きにくい印象を与えがちな個性が、最良に活きたのが『ずっとあなたを愛してる』。居場所もなく手持ち無沙汰な苛立ちを、ひっきりなしに煙草をふかすことで紛らすかのような冒頭の空港のシーンでは、クリスティン演じる刑期を終え出所したばかりのジュリエットは、あらゆる幸福から目を背けているように見えるが、彼女を引き取る歳の離れた妹や、“旅行中”だった伯母になつく聡明で屈託のないその養女、ジュリエットに好意を寄せる妹の同僚らと触れ合ううちに、クリスティンの強張った表情筋がやわらかな豊かさを取り戻し、うつろだった瞳も、生き生きと輝き出す。一歩、また一歩前進すればするほど、ジュリエットの犯したある罪の真相が、姉妹に重苦しくのしかかるが、胸の内に積もった澱をすべてさらけ出したその果てには、まだ見ぬ幸福が、確かに待ち受けている。

 撮影中のヒース・レジャーの急死により、一時は完成を危ぶまれながらも、ジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルがヒースの役を引き継ぐことで、テリー・ギリアムの脳内世界を見事に映像化することに成功した『Dr.パルナサスの鏡』。当初の作品の完成予想図がいかなる風であったのかは、今となっては知る由もないが、3人の曲者俳優のそれぞれの個性が、既に撮影済みだったフィルムの中に眠るヒースからもマジカルな多面性を新たに引き出し、鏡をくぐり、スクリーンすらも突き破り、幻想が現実へとなだれ込んだハチャメチャなギリアム・ワールドが、観客を圧倒する。アカデミー賞助演男優賞を受賞した『ダークナイト』(08)のヒースには、その強烈な演技と冷めやらぬ死の衝撃も重なり、狂気のみならず悲愴感すら漂っていたが、今回、破綻すらもいとおしくなる、もうひとつの遺作に出逢えたことで、ヒースが陽気に生まれ変わって銀幕に帰って来たような、楽しくも悲しい妄想に駆られてしまったのであった。

 (映画ライター 服部香穂里)

第47回 “飽くなきワンマンに花束を”


 偶然か、何かの必然なのか、現在公開中の『SOUL RED』『THIS IS IT』に続き、『E.YAZAWA ROCK』、さらに、『あがた森魚 ややデラックス』まで、エンターテイナーたちのドキュメンタリー・ラッシュである。

『SOUL RED』は、89年に40歳で亡くなり、今もなお多くのファンから愛される映画スター・松田優作の実像に、様々な人物の証言から迫ろうとする意欲作。やりきれない思いを抱えたまま、カメラの前で語る証言者からこぼれ落ちるのは、過ぎ去った年月の重みであり、たとえば、『家族ゲーム』(83)『それから』(85)でコンビを組んだ森田芳光監督が、優作との思い出を鮮明に振り返る時、公開中の森田監督の新作『わたし出すわ』の孤高のヒロインが、ふと『家族ゲーム』で優作が怪演した謎の家庭教師とダブって見えたように、優作の寿命があと数年でも延びていたら、新たな森田&優作の傑作が誕生し得たのではないかと、ないものねだりの喪失感に襲われてしまうのだ。片や、『THIS IS IT』は、今年6月に50歳で急逝したマイケル・ジャクソンの、実現しなかったロンドン公演を、幻では終わらせまいと、それを世界中のファンと共有させることに成功してしまった驚異の1作。主にリハーサル風景で構成されてはいるが、バックダンサーやスタッフのためだけに歌い踊るマイケルは、既に本番さながらのオーラを全身にまとい、彼の死を悼む類の映像を一切撮り足さなかったことも、未だマイケルの魂がこの世に生き続けていることを、一層まばゆく印象づける。また、優作と同い年で、今年の9月に還暦を迎えたばかりの矢沢永吉のロッカーとしての足跡をたどる『E.YAZAWA ROCK』の中で、自らを“矢沢”と客観視し、30年以上にわたり芸能界のトップに君臨してきた自信に裏打ちされた彼の数々の名言は、それがネガティブな側面を含むものであっても、しょせんは勝者の余裕とツッコミたくもなるのだが、体力の衰えやマンネリズムと格闘しながら、ファンの期待に応えてきた彼には、やはり頭が下がる。そんな、どこを切ってもスターな永ちゃんに引き換え、『あがた森魚 ややデラックス』のあがた氏には、もう少し気取ってもええんとちゃう?と心配になるほど、よくも悪くも嘘がない。『つぐみ』(90)などで見せた温厚そうな笑顔はそのままに、実は相当に頑固でわがまま、気が乗らなければ開演時刻を過ぎてもステージには上がらず、仲間は多いが、協調性を求められるバンド活動には不向きの、何とも厄介で、それでいて憎めない不良中年が、そこにはいる。

 自分の世界観に頑ななまでに忠実であろうとする、表現者の彼らに共通しているのは、妥協を許さず我が道を貫く、強靭な意志。空気を敏感に読み、要領よく立ち回ることがヨシとされるご時世に、その“俺様”っぷりは、多少の欠点も含めて、まぶしく映る。

 ナナゲイで公開中の『アニエスの浜辺』は、80歳を過ぎて、ますますキュートさに磨きのかかるアニエス・ヴァルダによる(じゃがいもの着ぐるみを着こなすのは彼女しかいない!)、現代においてもヌーヴェル・ヴァーグの実践は可能であることを軽やかに証明してみせた、瑞々しい自分史。オリジナルとは一味違う息吹を新たに与えられた、彼女と亡き夫・ジャック・ドゥミのフィルモグラフィーの自在なモンタージュの断片から溢れる、偉大な夫への変わらぬ愛情に感銘しつつ、シングルの女流映像作家として第2の人生を謳歌するアニエスにも、大いに元気づけられる佳篇である。

 『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち』は、現在活躍する様々なバンドに多大な影響を与えるなど、80年代に栄光を掴みかけるも、やがて人々の記憶からフェイドアウトしていったヘヴィメタ・バンド<アンヴィル>の創設メンバー・リップスとロブの、それでも夢を捨てきれない姿を追った、涙、涙のドキュメンタリー。パッとしない仕事で何とか食いつなぎ、家族のサポートにも甘え、1度きりの人生を、大好きなことを不器用にやり続けることで浪費するかのような彼らに呆れながら、いたく共感すらしてしまうのは、人は知らず知らずのうちに、あまりにも多くのことを諦め、日々をやり過ごしているからだろう。

 『マルコヴィッチの穴』(99)『エターナル・サンシャイン』(04)など、突拍子もない設定の中に人間なるものの本質を深く洞察する脚本で、映画ファンを感嘆させてきたチャーリー・カウフマンが、遂に監督デビューを果たした『脳内ニューヨーク』は、これまでに彼が脚本を手掛けたどの作品よりも、私的かつ内省的でありながら、誰にも等しく訪れる“死”という普遍的なテーマに、カウフマン流に大胆にアプローチしてみせた、恐るべき傑作。死を意識し始めた人気劇作家の壮大なプロジェクトに翻弄される、俳優たちや周囲の人々…という表向きのストーリーを目で追ううちに、観客たちまでもが、カウフマンの仕掛けた底知れぬ罠に捉えられてしまうものの、そこには、すべての痛みや苦しみから解放され、混沌と静寂に包まれた、絶望的なまでに美しいある種のユートピアが、見渡す限り広がっているのだ。

(映画ライター 服部香穂里)

第46回 “存在感 vs 演技力”


 多用される割に定義づけが困難なため、極力避けるべしと自らに課している言葉が、存在感に演技力。誰しも自分を“演じ”ながら、この世に“存在”していることを思えば、それらの有無や判断基準とは、いかなるものなのか。

 そんな思いに駆られたのは、『RISE UP』『携帯彼氏』『天使の恋』と、いずれも80年代生まれの新人監督の作品を立て続けに観て、似た感慨を覚えたからである。これらは、タイトルから想像される通り、観客のターゲットを10〜20代に絞り込み、キャストも、演技力を有するとされるベテランの代わりに、素材のもつ存在感のみで突っ走ることを許された若い俳優陣で占められているのだが、相当に縛りのある枠組みの中で、新鋭監督たちはそれぞれにベストを尽くし、弟や妹分にあたる出演者たちの新鮮な輝きを導き出すことに成功している。

 『RISE UP』に主演する林遣都は、デビュー作『バッテリー』(06)の野球にはじまり、飛び込み、ボクシング、駅伝と、1作ごとに様々な競技にトライすることで、青春のまぶしさをフィルムに刻んできた稀有な俳優。今回タッグを組む中島良監督は、パラグライダーに挑戦させ、目の不自由な少女との交流を通して自らの弱さと向き合う青年と、まっすぐな彼に触れて不自由さから解き放たれるヒロインの強さを、爽やかに描き出す。『携帯彼氏』は、『着信アリ』(04)に『サマーウォーズ』(09)を掛け合わせて『ゴースト』(90)でまとめたようなガッツリ系の珍品であるが、恋にときめき恐怖に震える新人女優たちから健康的な官能性を引き出しつつ、荒っぽいプロットを力技で押し切った、女性監督・船曳真珠の豪腕は頼もしい。『天使の恋』は、女子高生と難病を抱えた年上の男性との恋愛を軸に、援助交際、いじめ、自殺など、現代の病的要素てんこ盛りの、いかにもケータイ小説らしい胃もたれしそうな展開が続くが、今回が初監督となる寒竹ゆり監督は、モデル出身の佐々木希にひたむきに役を生きさせ、涙と鼻水でグショグショの彼女のアップには、巧みな演技では到達できない一瞬のきらめきが宿る。次代を担う若手監督たちが今後、大人をも眼中に置く作品でどう化けるかは、そのまま、日本映画の未来を占うことにもなる。

 鬼才・ポン・ジュノ監督の『母なる証明』は、韓国の国民的女優・キム・ヘジャが、殺人事件の容疑者とされた息子の無実を信じて手段を選ばず奔走する猛母に、日本でも人気の美形俳優・ウォンビンが、母親の心配をよそに飄々と構える息子に扮し、そんな“らしくない”母子に真実味を与える血の濃密さに、戦慄すら覚える意欲作。冒頭の度肝を抜かれるクネクネ踊りにはじまり、確かな演技力に裏打ちされたキム・ヘジャの存在感に圧倒されるが、お茶目なユーモアでカムフラージュしながら、母親も知らない息子の多面性を徐々に覗かせ、親離れできない子どもという構図を逆転させていくウォンビンの、天性の魅力で勝負していたアイドル時代からの飛躍的なステップアップにも、目を見張る。

 『ときめきに死す』(84)のハードボイルドなタッチに、『の・ようなもの』(81)『(ハル)』(96)などの人恋しくなるような温もりをたたえた、森田芳光ワールド炸裂のユニークな最新作が『わたし出すわ』。渋いファッションに身を包んで東京から故郷に舞い戻り、高校時代の同級生たちに大金をばらまく謎のヒロインを具現化する小雪は、その超然とした存在感がネックとなることもあったが、私生活の見えない浮世離れした今回のヒロインは、その個性にピタリとはまる。金がなければできないこと、金がなくてもできること、金があってもできないことなどを、様々な運命をたどる登場人物たちに託し、常に“現在”と格闘してきた森田監督流の幸福論が、じんわりと胸にしみる。

 危険でいっぱいの工場に野放しにされた妊婦という、暴発寸前の“爆弾”が、流産を経験した孤独な主婦の手の中で、その瞬間を今か今かと待ち受けているような、異様な緊迫感が全篇に充満する『無防備』。実際にも妊娠中だった市井昌秀監督夫人演じる妊婦の、希望に胸膨らませる脳天気で開けっぴろげな存在感と、人生に絶望した女性の底なしの心の空洞を角張った背中の張りに漂わせつつ、そんなトラウマからの脱却を泥まみれの圧巻の走りで魅せる、主演の森谷文子の鬼気迫る演技とのコントラストが、シンプルな画面設定にも絶妙のリズムを生む。あまりにリアルな出産を、スタッフ、キャストともども共有することで、製作当初から働いていたであろう監督のある種の計算をも易々と飛び越え、フィクションとドキュメンタリーが幸福に溶け合った、奇跡のようなラストシーンへと結実している。

(映画ライター 服部香穂里)

第45回 “人生、ヒョウタンツギ”


 今年で生誕80周年を迎える手塚治虫の作品に登場するキャラクターの中で、一番好きなものは何かと尋ねられれば、数ある強力なライバルを押しのけて、“ヒョウタンツギ”と答えるだろう。深刻なシーンであれ前触れもなく出没し、独特の存在感で場をさらう、不思議な生きもの。ツギハギだらけの身体に、形容し難い表情を浮かべ、心もとない縫い目で辛うじて地に根をおろし、社会とつながろうとする彼(彼女?)の在り方は、たゆたう人生にも似て、壮大なテーマに挑み続けた“漫画の神様”の照れ隠し、普通人でありたいと願う真の姿であったのではないかとすら思われるのである。

 石橋を叩いて壊してしまうような人生を歩んできた慎重派の男が、予期せぬ悲劇に巻き込まれ、獣へと豹変する『狼の死刑宣告』。『ミスティック・リバー』(03)で、ともにオスカーを受賞したショーン・ペンとティム・ロビンスに挟まれて評価され損なってしまったが、正義と暴力との間で苦悩する刑事という、監督のクリント・イーストウッドの分身のごとき作品の核心部分を、誠実に担っていたケヴィン・ベーコンが、その時の憂さを一気に解消する怪演を見せる。家族を守れなかった無念さにさいなまれた父親の、復讐の鬼と化すことでしか生きる意義を見出せぬ悲しみや狂気が、追う者、追われる者が瞬時に入れ替わる長廻しを多用した息詰まるシーンの数々から、激烈にほとばしる。

 『アンナと過ごした4日間』は、この奇妙な味わいのタイトルの意味が、観た後ズシリと響く逸品。終始薄曇りで殺風景な舞台の中に、突如として紛れ込むシュールなモチーフが、不穏な空気を醸し出し、極限まで切り詰められた台詞の行間を、怪しく補完する。天涯孤独な中年男の、一方通行の不器用な愛情表現には、時にユーモアすら漂うが、一途な熱視線を向けられるアンナもまた、癒えない傷を負った淋しい女であることが次第に明らかになるにつれ、報われるはずのない愛の不毛さが、一層際立っていく。愛するだけで幸せだった彼の秘めたる想いが、あまりにも滑稽で残酷な形で吐露されるクライマックスに、今回が17年ぶりの新作となるポーランドのカリスマ的名匠・イエジー・スコリモフスキ流の恋愛観が、濃密に凝縮されている。

 先日、モントリオール世界映画祭で最優秀監督賞を受賞した、根岸吉太郎監督の『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』は、生きていくことのやりきれなさと、それでも生きていかなければならない人生のおかしみが、愛し合っているのにすれ違ってしまう夫婦を通して、木目細やかに綴られていく。妻をぞんざいに扱いつつも嫉妬深い夫と、悪気もないままに男心をかき乱しがちな妻は、それぞれ不幸を装ってはいるものの、なかなかに図太く、お互いの想像以上に、似た者同士のベストカップルである。太宰治という“魔物”に真っ向から対峙した田中陽造の脚本を、根岸監督はワンカットごとに、粘り強く堂々と受け止める。脚本の存在を軽視し、小手先だけのカメラワークで映画ぶっている作品が量産されている中、これぞ映画と久々に叫びたくなる正統派の風格に、心地よく圧倒されるのだ。

(映画ライター 服部香穂里)

第44回 “暁をいだいて闇にゐる蕾”


“草魂”という言葉が好きです。
踏まれても踏まれても天に向かって真っ直ぐに伸びる雑草のたくましさを宿し、信念を守り貫く心の持ち主。そんな人間でありたいと考えています。

 そんな“草魂”の持ち主を描いた映画が製作されました。『鶴彬 こころの軌跡』です。
鶴彬。本名・喜多一ニは、1909年1月1日、石川県河北郡高松町(現・石川県かほく市)に生まれました。幼い頃より短歌や俳句に親しみ、16歳の時に川柳と出会いました。
 川柳といえばサラリーマン川柳が有名ですね。ユーモアを基調としながら世相をチクリと風刺する句の数々を、私も毎年楽しみにしています。
 そんな諧謔風刺をモットーとする川柳に鶴彬は命懸けで臨みました。かの悪名高き治安維持法によって言論・表現の自由が侵害されていた軍国主義日本において、川柳を通じて反戦を訴え続けたのです。

“タマ除けを産めよ殖やせよ勲章やろう”

“万歳とあげて行った手を大陸において来た”

 この痛烈な句作によって危険視された鶴彬は、特高(特別高等警察)によって幾度も捕らえられ、その度に拷問を受けました。それでも彼は己の信念を曲げず、1938年9月14日、留置中に赤痢にかかり、29歳という短い生涯を閉じました。
 では、鶴彬が守り続けた信念とは一体何だったのでしょうか? それは次の句に良く表れています。

“暁をいだいて闇にゐる蕾”

 平和を夢見て牢獄の中で闘い続けた鶴彬という蕾は、その生涯に花開くことがありませんでした。しかし、今、神山征二郎というベテラン監督によって、その尊い“草魂”が映画化されたのです。皆さんの心の中で、平和という大輪が花開かんことを祈りつつ、この作品をおすすめします。

(映画ライター 喜多匡希)

第43回 “アジアの夏”


 静思わず“キーン!!!”と効果音を叫びたくなる、疾風のごときウサイン・ボルトの爆走に魅せられ、残暑の厳しさにかまけて、更新も滞りがちな我が身を猛省……ちゅうわけでもないが、この夏、さすがにベルリンには行けずとも、せめて映画でアジアめぐり気分でも味わって頂こうと、これから公開されるアジア映画の逸品を、選りすぐってお届けしたいと思います。

 まず、わが日本からエントリーするのは、矢口史靖監督の右腕として数々の作品に携わり、『トキワ荘の青春』(96)の安孫子素雄役など俳優としても活躍する鈴木卓爾の、長篇監督デビュー作『私は猫ストーカー』。たとえば、現在公開中の『HACHI 約束の犬』では、亡くなった飼い主を献身的に待ち続ける忠犬のリリカルな心象風景が涙を誘ったが、自らの死期を悟るとプイといなくなるという猫に、それぞれに侵し難い領域を隠しもつ人間の孤独をも重ね合わせる本作のベクトルは、まるで真逆。下町で暮らす猫のマイペースな日常を尊重しつつ、路地という路地をストーキングして回る主人公をはじめ、猫を執拗に見つめる反面、猫から見返されてもいる一風変わった人々の心の揺らぎや、決して長くはない人生の中で、かけがえのない瞬間を偶然に共有することのできる喜びが、猫目線の手持ちカメラと、その重心の低さをフルに生かす、今時珍しいスタンダードサイズのフレームにより、ほんわかと映し出されていく。

 誘拐された女性の携帯電話が、お気楽だが人の好い青年と偶然つながったら……というワン・アイディアで、ラストまで一気に畳み掛けるサスペンスの佳篇『セルラー』(04)を、香港映画の“売り”を惜しみなく注ぎ込み、大胆にリメイクした『コネクテッド』も、オリジナルに勝るとも劣らぬ快作である。およそ正義のヒーローらしからぬクリス・エヴァンスの甘いマスクが、スリリングな展開の中にもユーモアを醸し出していたハリウッド版に対し、今回、端整な二枚目・ルイス・クーが演じるのは、私生活にも山ほど問題を抱えた、約束を守ることのできないダメ男。そんな彼を一途に信じる、見ず知らずのヒロインの期待に応えるべく、複雑に入り組む香港の道路を必死にハンドル切りながら逆走する姿を食い入るように見つめるうちに、頬を伝うものが、汗から涙へと変わる。空港でのクライマックスの壮絶なアクションは、ネタのおいしいとこ取りばかりしているハリウッドに向けた、香港映画人たちのプライド漲る挑戦状である。

 ソン・ガンホ×イ・ビョンホン×チョン・ウソンという韓国のビッグスターが、いい奴=グッド、悪い奴=バッド、変な奴=ウィアードに扮し、30年代の満州を舞台に、ハチャメチャな殺し合いを繰り広げる『グッド・バッド・ウィアード』。実力もキャリアも一枚上手のガンさんとビョンさんの、基本設定をはみ出たやりたい放題のハジケっぷりを横目に、ただただ寡黙に難しいアクションをクリアーしつつ、“いい奴”を愚直なまでに演じようとするウソンがいじらしくもあり、そのバランスの悪さ……否、明確なコントラストが、愛すべき魅力のひとつにもなっている。作品の華やかなパッケージが一際目を引くが、そこに安住するのではなく、常にさらなる高みを目指していたに違いないキャストやスタッフたちの現場での一体感やエネルギーが、時にいびつなまでに、スクリーンから横溢する。

 台北郊外に佇む9人の高校生たちの、無軌道ながらも二度と訪れることのない青春の輝きを、過剰に美化することなく、生き生きとありのままにすくい取った『九月に降る風』。風が“吹く”代わりに、身体に降り注いでくるような屋上は、不良たちの溜まり場であると同時に、天界に一層近い、神々しさすら漂う聖域でもある。八百長事件が台湾プロ野球界を揺るがしていた97年を、直に体感した76年生まれのトム・リン監督は、そんな本作の時代背景に、信じてきたものが崩れ去る、自らの青春の終わりを投影する。一番大切なことは胸の奥にしまったままに、何気ないカットのひとつひとつには、きちんと意味をもたせる心憎い演出は、監督がファンだと語るあだち充の作品にも通じるものがある。野球に情熱を注ぐあだち漫画の人物たちとは違い、気持ちのやり場を見出せずに自滅していく若者像がリアルに描かれるが、苦い過去に縛られたままの人たちの時間を、ゆっくりと押し進めてくれるエンディングが、ファンタジーのぬくもりを、ほんのりと添えている。

(映画ライター 服部香穂里)

第42回 2009年 夏休み映画 蔵出し傑作選(1)
〜『屋根裏のポムネンカ』〜


 静止している物体をヒトコマずつ動かして撮影し、あたかもその物体が独自に動いているように見せる撮影技法をストップ・モーション・アニメーション(コマ撮り)という。その中でも、主として粘土で作った人形を使用した人形劇がクレイ・アニメーションだ。近年ではイギリスの『ウォレスとグルミット』シリーズが日本でも有名だが、クレイ・アニメーションの本場といえばチェコスロヴァキア(現在はチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離)である。古くはカレル・ゼマンやイジー・トルンカ、近年ではヤン・シュヴァンクマイエルを輩出したチェコのクレイ・アニメーションは他国の追随を許さず、独自の映像世界を追求している。

 では、チェコ・クレイ・アニメーション界において、最も多くの支持を集める作家は誰か?イジー・バルタである。しかし、イジー・バルタは不幸だ。1989年のチェコスロヴァキア共産党政権崩壊後、約15年もの間、作品を発表することが出来なかった。今回、日本からの出資を得て完成した『屋根裏のポムネンカ』は、『笛吹き男』以来、実に23年振りの長編作品である。

 【主人公は、人間たちにその存在を忘れ去られた屋根裏のガラクタたち。ある日、帽子が大好きな青い目のお人形ポムネンカが、悪の親玉フラヴァにさらわれてしまう。「皆のマドンナを助けよう!」と立ち上がったのは、伸縮自在のシュブルト、マリオネットのクラソン、クマのぬいぐるみ・ムハ、人気DJのねずみたちといった屋根裏の仲間たち。フラヴァの差し向けるグロテスクな昆虫やネコの妨害を掻い潜りつつ、ポムネンカ救出隊が陸・海・空の大冒険を繰り広げる!!】

 単純明快なストーリーに、ありとあらゆるスペクタクルをギュギュギュッと詰め込んだ冒険活劇。を変え、品を変え、これでもかとばかりに観客を楽しませようとするサービス精神は、付き添い気分だったはずの大人の視線さえもスクリーンに釘付けにして止まない。実写とアニメーションを織り交ぜた混交の魔術とも言うべき演出が素晴らしい。水色のシーツを使った大洪水のシーンなど、その白眉と言えよう。そればかりか、悪の独裁者フラヴァと愛すべきガラクタ軍団の戦いは、SF映画史に名を残す『スター・ウォーズ』における、帝国軍と反乱軍の戦いをも連想させる!! 数多の映画ファンだけでなく、子どもの付き添い気分で劇場に足を運ぶ大人たちのも、手に汗を握ってスクリーンを凝視することだろう。

本作の基盤には、イジー・バルタがその目でしかと捉えた激動のチェコ史がある。しかし、まったく難解でもなければ、お説教臭くもない。団結・反乱・革命といったレジスタンス運動を主軸に据えながら、本作はあくまでも勧善懲悪型の一大娯楽活劇なのである。これぞ“表現”である! これぞ“映画”である!!
 さすがはイジー・バルタ。“チェコアニメ界最後の哲人”の異名は伊達ではない!

(映画ライター 喜多匡希)

第41回 “神一重”


 お先真っ暗な社会情勢ゆえか、神の影があちらこちらに見え隠れする、“困った時の神頼み”的な作品が、昨今やたらと目立つようになった。神との訣別を暗示するものから、敢えてその威光にすがるものまで多様であるが、共通するのは、取り返しがつかなくなるほど歪んだ世界を作り給うた、神というおぼろげな存在に対する、信頼の揺らぎである。

 アイルランド出身の作家による原作を、英国人が監督した、異色のホロコースト映画『縞模様のパジャマの少年』は、よそ者だからこそ描くことが可能となったであろう、いささか悪趣味にも映る驚愕の展開に、賛否がまっぷたつに割れること必至の問題作である。ナチス将校の8歳の息子と、同い年のユダヤ人の少年との、収容所のフェンス越しに芽生えた奇妙な友情は、8歳にしてはあまりに幼稚すぎる冒険心と、無知ゆえの身勝手な正義感とを、急速に暴走させていく。世が世であれば、何ら違いのない少年同士の固い絆がたどる残酷な行く末を、感情を押し殺すかのように、じっと見据え続けるカメラの絶望感は、歴史上の汚点の数々を、天上から黙認するしかなかった神の無力感と、重なって見える。

 30日間太陽の昇らない、ヴァンパイアにとってはパラダイスのような暗黒の街を舞台に、住民との壮絶な生存競争が繰り広げられる『30デイズ・ナイト』。小悪魔に追いつめられる中年男の恐怖を、皮膚感覚にキリキリ訴える演出で描いた『ハードキャンディ』(05)で、鮮烈にデビューを飾ったデイヴィッド・スレイド監督は、次々と餌食になる無残な人々を容赦なく切り取るが、それ以上に恐ろしいのは、いかにもひ弱なジョシュ・ハートネット扮する保安官が、死闘を重ねるうちに道徳観念をマヒさせ、獣と化していく姿。理性が失われゆく中、彼の出した究極の決断は、誰も守ってくれない神に成り代わる、あまりに切ない裏切り行為。これほどハードなヴァンパイア映画を放ったスレイド監督が、女子高生を中心に人気の『トワイライト』シリーズ第3作をどう撮るのか、興味津々である。

 ともに広島で被爆した夫婦の半世紀以上にわたる歩みが、夫・川本昭人監督の愛妻に向けるカメラを通して、過去と現在を行きつ戻りつ刻まれていく『妻の(かお)』。後遺症に苦しみ、酸素マスクが手放せない中、寝たきりの義母の介護を甲斐甲斐しくこなす妻に、何もしてやれない夫。忌まわしい体験を共有しつつも、夫婦の間を遮る見えないベールを取り払うべく、いかなる状況からも目を逸らさず、夫はひたすらカメラを廻し続ける。呼びかけても応答のない義母を前に取り乱す妻、アイロンがけをしながら原爆で亡くなった弟に思いを馳せ涙ぐむ妻、やり場のない苛立ちを夫にぶつける妻…。淡々とした日常にふとヒロシマの影がよぎる妻に、夫の代わりに寄り添うカメラが映し出す表情のいずれもが、とにかく美しい。死と隣り合わせの儚い美しさから、理不尽な運命への怒りがほのかに覗き、何気ない家族のいとなみのかけがえのなさが、一層輝くのである。

 イタリアの名匠・エルマンノ・オルミが、最後の劇映画に選んだ『ポー川のひかり』は、これまで行われてきた偶像崇拝の無意味さを、静かに、しかし、痛烈に批判する。キリスト教関係の古文書を、太い釘で“大量虐殺”するという罪を犯した若き哲学教授が、すべてを捨てて流れ着いた、ポー川沿いののどかな村で、“キリストさん”と慕われるようになる。各国で紛争の絶えない現実をよそに、書物の山に埋もれたまま、机上で理論をこねくり回すだけの日々に虚しさを感じていた彼は、気のおけない仲間と酌み交わすワインの格別な旨さを、村人たちから教えられる一方で、教養人であるからこそ、自身にも与えられるものがあることを、改めて実感する。高尚な教義を一様に盲信するのではなく、それぞれの生活に根差した“キリスト”をもち、それを信頼することのできる人間ひとりひとりの強さに、オルミはかすかな希望を託している。

(映画ライター 服部香穂里)

第40回 “魔性の女の子”


 先日、ナナゲイで久々に『ミツバチのささやき』を観た。目に見えないはずのものの気配を敏感に察知する才人・ヴィクトル・エリセは、『フランケンシュタイン』を入口に、不思議の世界へと迷い込んでいく6歳のヒロイン・アナを、か弱く未成熟な“少女”としてではなく、もっと自立した“女の子”として捉え、ひとりの末恐ろしい……もとい、立派な“女”が誕生する瞬間を、静謐な映像の中にも、官能的に映し出す。夏らしい新作、大作の公開ラッシュではあるが、旧作を映画館で(ここ、重要!)しみじみ味わい直すのも、新たな発見があり、実に贅沢なものである。

 『チャーリーとチョコレート工場』(05)では、ティム・バートン流ブラック・ユーモアの餌食となるガム娘をあっけらかんと演じ、『テラビシアにかける橋』(07)での、観る者の涙を絞りとる凛々しい転校生役もまぶしかったアナソフィア・ロブ。SF大作かと思いきや、のほほんとしたおかしみすら漂う『ウィッチマウンテン/地図から消された山』で彼女が演じるのは、兄とともに地球に降り立った宇宙人。前科者だが気のいいタクシー運転手を巻き込み、ここぞとばかりに目を潤ませて訴えかけるアナソフィアは、正に魔性の女。国家的な陰謀(?)に立ち向かいながら、ふたりが心通わせあう様は、ラブストーリーのようでもあり、運転手の相手役に用意された女優が、完全にかすんでいる。

 ほんわかなタッチの陰で、生きることの厳しさ、人間のどうしようもなさを痛切に描く西原理恵子の漫画の実写化は、相当に手強い。女優はルックスを重視したくなりがちであるが、ハードボイルドな日常を生き抜く資格があるのは、芯がタフな女の子だけ。その点、『子猫の涙』(08)で、「じゃりん子チエ」的世界観を体験済みの森岡利行監督は適任だったようで、『ぼくんち』(03)『いけちゃんとぼく』(09)に次ぐ、西原原作の『女の子ものがたり』は、“らしさ”では最も成功しているのではないか。男なしには生きられない美少女が、非凡な才能をもつ親友の背中を押すべく、敢えて憎まれ役を買って出る時、サイバラ・ワールドの住人にふさわしい、ふてぶてしくも男前な女の子オーラを放つのである。

 北イタリアの小さな村の湖畔に横たわる、まるで眠っているかのように穏やかな佇まいの、美しい少女の遺体。そんな物言わぬ語り部に耳をすませているうちにも、物語は動くのをやめず、あっという間の濃密な95分に目を見張る『湖のほとりで』。快活で目立つ存在だった女の子の、人知れず抱えていた悲しい秘密と、その突然の死は、彼女と接点のあった家族や知人、恋人、さらには、捜査にあたるベテラン刑事の方へと、静かに波紋が広がっていく。すべての謎が明らかにされた後も、漠然と残ったままのしこりは、大切な人を失った、あるいは、失いつつある彼らの、それでも愛した記憶だけは、いつまでも失わずにいたいという、精一杯の意思表示なのかもしれない。

(映画ライター 服部香穂里)

第39回 “私たちの履歴書”


 度重なる拷問を受け、33年もの監獄暮らしを余儀なくされたチベット僧・パルデン・ギャツォに焦点を当てた『雪の下の炎』を観ながら、“男の顔は履歴書”であると、つくづく思った。岡本太郎のごとき好奇心に満ち満ちた目をお茶目に光らせる一方で、ヨーダにも似た崇高な面持ちに、チベットの負の歴史にも屈せず信念を貫く彼の情熱が刻みつけられたしわの一本一本が、惰性に流されがちな私たちに、大切な何かを静かに訴えかけている。

 “自分は何者であるか”という、死ぬまで答えの出そうにない問いを、作品の中で探求し続けること。そんな映画人の心意気に胸打たれるとき、夏の暑さも、しばし忘れる。

 名バイプレーヤー・リチャード・ジェンキンスが、今年のアカデミー賞で主演男優賞候補となった『扉をたたく人』。“初主演”という触れ込みではあるが、傑作ドラマシリーズ「シックス・フィート・アンダー」(01〜05)において、ジェンキンス扮する葬儀屋一家の長は、初回の冒頭に自動車事故であっけなくこの世を去るが、事あるごとに亡霊や幻影として家族の前に現れ、陰の主役としてドラマを牽引し続けていた。そんな彼が今回演じる孤独な大学教授は、気のいい移民青年との出逢いにより、自分の殻に引きこもる単調な日々が、新鮮な驚きに満ちたものへと一変する。忘れかけていた恋心やときめき、そして、激しい怒りをも取り戻していく初老男のやるせなさを、全篇出ずっぱりとはいえ、これまで通りの肩肘張らぬアプローチで見事に醸し出してしまうところに、一見目立たぬ存在でも自分の人生を誰しも懸命に生きているのだという、彼の哲学が反映されているようだ。

 『八甲田山』(77)『駅 STATION』(81)『火宅の人』(86)『鉄道員』(99)など、厳しくも美しい自然の驚異や、俳優同士の魂のぶつかり合いを凝視し、カメラマン一筋に映画人生を突き進んできた木村大作。常に“本物”にこだわり、妥協を許さぬプレッシャーを自らに課すことで、映画界に偉大な足跡を遺してきた彼の集大成ともいえる渾身の監督デビュー作が、『劒岳 点の記』である。“百聞は一見に如かず”を地で行くがごとく、実際に見たもの、経験したことしか信じないという木村イズムが、キャスト、スタッフにも浸透し、たった数シーンの撮影のためであっても、往復何時間もかけて、キツい登山を全員で敢行する。その過程で、木村大作と“仲間たち”との間に必然的に生まれてくる運命共同体としての一体感が、演技や段取りといった映画作りにまつわる煩雑なあれこれを楽々と超越し、えも言われぬリアリティとなって、観る者をただただ圧倒するのである。

 96年に54歳で急逝したポーランドの名匠・クシシュトフ・キェシロフスキの軌跡を、貴重なフィルムやスタッフたちの証言からたどる『スティル・アライヴ』。ドキュメンタリー作家として出発するが、被写体の人生に及ぼす影響や、カメラに映るそばから真実性がこぼれ落ちるドキュメンタリーの不可思議な特性に苦悩した末に、劇映画へと移行したこと、“平穏”を渇望しながらも、生き急ぐかのように映画作りに没頭したキェシロフスキの生涯が、彼の教え子の作品らしく、淡々と綴られる。とりわけ、『太陽と月に背いて』(95)『敬愛なるベートーヴェン』(06)など肝の据わったフィルモグラフィで知られるアニエスカ・ホランドによる、同志としての愛憎入り混じる率直な評価が、ユニークな味わいをもたらす。キェシロフスキの口癖だったという“スティル・アライヴ(まだ、生きてるよ)”とは、時代を経ても色褪せぬであろう、彼の遺した作品に捧げるオマージュでもあるのだ。

 『弾丸ランナー』(96)で鮮烈に映画監督としてデビューし、続く『ポストマン・ブルース』(97)でも、“走り”を、死とスレスレの生の喜びへと見事に昇華させたSABUであったが、自身のスタイルの追究と脱マンネリ化との狭間で葛藤するあまり、長い混乱期に入ってしまう。併走してきた堤真一とのコンビを解消し、『幸福の鐘』(02)では遂に走るのをやめ、重松清原作の『疾走』(05)が映した、どん詰まりの社会でもがく青春像には、タイトルに反して、まるでSABU自身にも刃を突き立てるような痛切さがにじんでいた。それから4年、かの有名なプロレタリア文学『蟹工船』の再映画化という、いわば“企画もの”の枠組みの中で、笑いと涙が混然となったかつてのSABUワールドが、久々に甦る奇跡。劣悪な状況を、なりたい自分をひたむきにイメージする“妄想力”で生き抜いた男たちに監督の姿が重なり、暗く閉ざされた船内から、生の鼓動が熱く響きわたるのである。

(映画ライター 服部香穂里)

第38回 “マスク・コレクション”


 電車、バスを乗り継ぐ度に、異様な緊張感を強いられる、生殺し状態の日々だった。多数派のマスク団が与える無言のプレッシャーに負けそうになりながら、勇気を出して個別によくよく眺めてみると、ピンク、水玉、花柄といったガーリーなものから、ウッドペッカーのごときカサ高い超立体型、CASSHERNばりのフィット感重視のクールなタイプまで実に様々で、日本全国からかき集めたのであろう雑多なマスクの見本市として楽しむことで、何とかやり過ごす。ようやく平静を取り戻しつつあるが、あの現象が遺した傷は案外根深く、今後も予期せぬ場面で、うずいてくる気がする。

被写体として魅力的な“山さん”という逸材を得て、選挙活動の表から裏までを清々しいほどあっけらかんと丸裸にし、従来のドキュメンタリーとは一線を画した、観察映画第1弾『選挙』(07)が、世界的にも大評判となった想田和弘監督。その第2弾として撮り上げた『精神』では、精神科に通う患者たちの心のありようを、一切の偏見や先入観を取っ払い、ありのままに見つめようと試みる。カメラを意識してサービス精神旺盛な人もいれば、聴き手など存在しないかのように、あまりに重い過去の罪を淡々と吐露し続ける人もいる。彼らにとっては、診療所こそが自分が自分でいられる唯一の場であり、社会の中で生活を営むことは、マスク族に取り囲まれるのにも似た閉塞感を与えるのかもしれない。究極の人間観察を“演出”と呼ぶべきかどうかはさておき、あちら側とこちら側の橋渡しに徹するカメラを通して、彼らの中に否応なく自分の断片を見つけるうちに、いつしか私たちの物語として地続きになっていたことに動揺してしまう時、既にシンプルかつ巧妙な想田マジックにかかっているのである。

TVドラマ「Huff〜ドクターは中年症候群」(04〜06)では、神経症気味の精神科医の息子を飄々と演じ、『スター・トレック』『ターミネーター4』と、映画出演作も相次いで公開される、注目の若き個性派・アントン・イェルチンの初主演作が、邦題もユニークな『チャーリー・バートレットの男子トイレ相談室』。周囲から浮きまくる主人公のチャーリーは、ある時は生徒たちの悩み相談に乗り、ある時はご機嫌にピアノを弾きこなす、まるで「ピーナッツ」のチャーリーとルーシーとシュローダーを掛け合わせたようなスーパー高校生であるが、監獄に入ったままの父親と、未だ対峙できずにいる。その難敵として君臨する、彼のガールフレンドの父親にして高校の校長も、演じるロバート・ダウニー・Jr.自身とも少々重なる、校長らしからぬ弱点にもがいている。そんな似た者同士が、互いに化けの皮をはぎ取りつつ、自身の素顔と向き合っていく様は、微笑ましく感動的ですらあるが、現代のストレス社会をチクリと突き刺す痛みも伴う。

ボイス・キャストとキャラクターが瓜ふたつの『シャーク・テイル』(04)の監督と、異形に対する深い愛に溢れた『シュレック2』(04)の監督が、いいとこ取りしてタッグを組んだ『モンスターVSエイリアン』。結婚式当日に巨女となってしまった悲劇の花嫁に、生き生きと息を吹き込むリース・ウィザースプーン、奇抜な実験中の事故により、天才的頭脳をもつゴキブリと化した科学者に、人気ドラマ「Dr.HOUSE」(04〜)で皮肉屋の名医を快演するヒュー・ローリー、捕獲してきたモンスターを地球平和に活用しようと息巻く軍人に、秒単位で訪れる“あり得ねー”危険を次々とクリアし続ける「24」(01〜)のジャック・バウアーことキーファー・サザーランドなど、自身のハマリ役をカリカチュア化したようなキャラクターを熱演する声優陣を想像しながら、一粒で2度、3度味わえる贅沢な作り。一見グロテスクだが愉快な仲間たちとともに、地球の未来を託された運命を肯定し、よりパワフルに輝くヒロインの超ポジティブな闘いっぷりからは、“外見よりも中身”という「シュレック」シリーズにも通じる真っ当なメッセージが、率直に伝わってくる。

『蛇イチゴ』(02)、『ゆれる』(06)で、家族に対する“疑惑”に囚われた人たちの葛藤を生々しく描き、高く評価されてきた西川美和監督。期待の新作『ディア・ドクター』では、高齢者だらけの無医村を舞台に選び、様々な思惑を抱く周囲の協力を得て、“優しい嘘”をつき続けるニセ医者を主人公に、家族という枠組みから脱却して、さらなる進化を遂げる。『東京上空いらっしゃいませ』(90)でも、卑劣極まりない好色野郎と人の好すぎる死神の二役を難なく演じ分けていた笑福亭鶴瓶が、そのタヌキぶりを今回も遺憾なく発揮し、幾通りものマスクを取っ替え引っ替えしながら、村人や研修医たちの信頼を勝ち取る謎の男を、温和な表情の影で小さな目を鋭く光らせながら、怪演している。彼の突然の失踪から映画は幕を開けるが、村に脱ぎ捨てられた“先生”の白衣が、切ない失踪理由の一端を告げる。医師の扮装を放棄することで、嘘で塗り固められた人生に別れを告げ、ひとりの人間として、再出発すること。そんな願いが、意外な形で叶えられた彼の目には、後ろめたさの代わりに、これまでにない穏やかさと、純粋な愛が宿っていたのだ。

(映画ライター 服部香穂里)

第37回 “不良中年と呼ばれて”


 『サガン −悲しみよこんにちは−』を観ながら、04年にフランソワーズ・サガンの訃報に触れた際に、まだ健在であったのかという不謹慎な驚きと、69歳という意外に若い享年に対する違和感とが、同時に湧いてきた謎が、少し解けたように思った。弱冠18歳にして、鮮烈なデビュー作「悲しみよこんにちは」で、一躍“時の人”となったサガン。その3年後に瀕死の事故から生還するも、“10歳に戻りたい。大人になりたくない”という無謀で切なる願いを抱き続けた彼女の、麻薬やギャンブルに溺れたやけっぱちな人生は、永遠の不良少女による、壮絶な死に場所探しのようでもある

 青春時代の不良性を捨て切れず、年甲斐もなく我が道を突き進んでしまう不良中年たちは、真っ当に世を渡っていく上での指針にはなり得ないかもしれないが、スクリーンの中を気ままに暴れ回る彼らの姿は、妙に生き生きと、網膜にこびりつく。

 『インサイダー』(99)、『グラディエーター』(00)、『ビューティフル・マインド』(01)など、型にはまらぬ役柄で、演技派の称号を獲得した今も、厄介な問題児の佇まいを残すラッセル・クロウ。最新主演作『消されたヘッドライン』の役どころは、活字のもつ記事の重みや中身よりも、その鮮度やインパクトが重視されるWEB時代に抗うかのように、自らの脚で真実を貪欲に追い求める、昔気質の新聞記者。ややもするとステレオタイプの正義漢に収まりそうな人物であるが、ジャンクフードが主食の今回のクロウは、メタボ気味の太鼓腹で情報源を恫喝し、時には親友すらダシにしてでもネタを取る、骨の髄まで新聞屋に染まり切った中年男の狂おしい悲哀をも、さりげなく漂わせて見せる。

 名門一家に生まれたプレッシャーや甘えのせいか、与えられた仕事も長続きせず、モラトリアム人生まっしぐらのアル中だったジョージ・W・ブッシュが、いかに大統領の地位にまで上りつめたかを、極力シンプルに見つめた『ブッシュ』。出来のいい弟ばかり可愛がる父親への虚しい反抗心から、遂にはイラク開戦へとひた走る“W”のあまりに幼稚な暴挙をも、声高に糾弾したり皮肉ることなく、かけがえのない平和が、ひとりの人間の手に委ねられた心もとない存在であると暗示することで、じんわり恐怖がにじむ笑えぬコメディ(?)に仕上げ、殊に社会派作品の場合、鼻息荒く勇み足になりがちだったオリヴァー・ストーンが、新境地に挑んでいる。

 74年に起きた前代未聞の“犯罪”を題材に、今年のアカデミー賞で最優秀長篇ドキュメンタリー賞に輝いた『マン・オン・ワイヤー』は、実話でありながら、綱渡りに生涯を捧げた異端のフランス人・フィリップ・プティによる淡い魔法のようでもある、マジカルな逸品。ワールド・トレード・センターのツインタワーの間を、綱渡りで行き交うのを夢見た命知らずの冒険野郎と、その計画に手を貸すことになった共犯者たちの証言を軸に、実際の映像素材とフィルム・ノワールばりの再現シーンを織り交ぜ、嘘のような真実が紡ぎ出されていく。その後の長い年月を着実に刻みつけてきた、かつての仲間に対し、多動児のごとき落ち着きのない茶目っ気で、当時を楽しそうに振り返るプティの変わらぬ無邪気さに、ツインタワーの在りし日の面影が、ふと重なって見えた。

 タフなハリウッドの映画界において、スターとしての栄光を掴んだのも束の間、出口の見えぬ泥沼の深みを長く彷徨っていたミッキー・ロークが、『シン・シティ』(05)などでの怪演を助走に、見事に完全復活を遂げた『レスラー』。かつては頂点を極めた人気者も、今やしがないドサ回りに明け暮れる中年レスラーの波乱の生きざまに、自己の紆余曲折を反映させつつ、全身全霊でぶつかったローク渾身のハマリっぷりは、演技であることを超越し、観衆の熱狂に包まれるスクリーンをすり抜け、観客ひとりひとりの魂に、激しく揺さぶりをかけてくる。ハリウッド的なハッピーエンドとは極にある、崖っぷちの不良中年のみが体現できるズタボロな負のカタルシスに、目に汗かきながら酔いしれるのである。

(映画ライター 服部香穂里)

第36回 “去るものを追え!”


 来る者すら拒むような困った性分ゆえ、人と人とのつながりが生命線となり得るこの仕事には不向きか……と思うことも、しばしば。それゆえ、『小三治』の中で、自らを陰気と評し、“噺家に向いてねえ”と独りごちながら、さらなる境地へと自身を追い込んでいく小三治師匠の表現者としてのストイックな姿勢に、大いに刺激される。誰もが一律に落語に触れられるTV収録よりも、そこに居合わせた者のみが至福の一瞬をリアルに体感できる高座を好む、孤高の噺家の知られざる素顔。とはいえ、カメラの前で見せる“オフ”ショットには、師匠一流のはぐらかしが見え、謎は深まるばかりであるが、フィルムからこぼれんばかりの気迫をライブそのままに掬い取ることに成功した、クライマックスの「鰍沢」にこそ、“全身噺家”の柳家小三治その人が、逆説的に凝縮されているように思われた。

 汚職にまみれた挙句、しがないデリヘル経営者となった元刑事と、動機なき連続猟奇殺人事件の容疑者との、緊迫感みなぎるノンストップ追走劇『チェイサー』。ハリウッド映画流にドンパチやれば、あっけなく終わる話を、生身の肉体を限界まで酷使した俳優たちが、十字架に監視された住宅街の路地という路地を駆け抜けるわ、振り上げた鈍器や硬く握った拳が、その打撃の重みを響き渡らせるわ、韓国映画独特のアクションの泥くささが、ねっとりと観客の皮膚感覚にまとわりつき、何ともクセになる味わい。理想とは裏腹に、人の命に軽重が確実に存在する現実社会の底辺で、自分をマゾヒスティックに罰しながら、狂気にも似た執念を燃やすアウトローと、それをせせら笑うかのように、飄々と殺人を重ねていくサイコパスとの死闘。その果てにある形容し難い無力感が、昨今の漠とした事件の数々をも彷彿とさせ、日常の片隅にまで浸透していく。

 失われるものの儚さと凛とした強さとを、フィルムという形で永遠に刻みつけ、ドキュメンタリーとフィクションとの境界に、常に揺さぶりをかけてきた若き鬼才・ジャ・ジャンクー。最新作『四川のうた』の舞台となる、半世紀にわたる歴史に幕を降ろそうとしている中国の国営機関“420工場”も、いかにも彼好みの素材ではあるのだが、その料理の仕方が、これまでとはひと味違う。工場にまつわる人たちの生の声と、プロの俳優が語る台詞とを、同じうねりの中、半ば強引に溶け込ませることから生じる化学反応により、激動の中国現代史が、実際にあった、あり得た、あって欲しかったと、無限の広がりを見せる個人史へと解体されていく。そんな実験的なアプローチを経た本作は、老成した作風の彼のフィルモグラフィーの中でも、とりわけ若々しさに溢れ、次なる方向性を予感させつつも、特異な輝きを放っている。

 “The Reader”という原題の多様な意味に立ち返った結果、某邦画の題名に酷似してしまった(と、想像される)『愛を読むひと』。原作のベストセラー「朗読者」は、“朗読者”である青年の、平静を装う一人称によって語られる残酷な真実の隙間に、彼の自虐的なナルシシズムが見え隠れしていたが、青年のその後を演じるレイフ・ファインズは、現在公開中の『ある公爵夫人の生涯』に続き、“媚び”を一切排除した完璧なまでのダメ男オーラを漂わせ、回想場面のまぶしさに対し、彼が背負う日常は、いつも淀んでいる。そして、原作では、青年の目を通してのみ描かれた幻影のような女性を、アカデミー賞主演女優賞に輝いたケイト・ウィンスレットが、能動的な肢体により、有無を言わせぬ存在感で、スクリーンに体現する。そのきらめきを奪い去った、忌まわしい過去と、ある秘密。運命に翻弄されるふたりが、フェアに輪郭を与えられたことで、原作を踏襲しつつも、新たな彩りが幾重にも重なる、映画版ならではの仕上がりとなった。

 『ダークナイト』(08)のヒース・レジャー、『スカーレットレター』(04)のイ・ウンジュなど、若くしてこの世を去ったスターたちの最後の出演作が、生き急いだ彼らの役者人生と妙にシンクロして、より鮮烈さを増すことがある。そんなリストに新たに加わることになったのが、昨年37歳で急逝したギョーム・ドパルデューの遺作『ベルサイユの子』。実父の名優・ジェラールとの確執や、バイク事故による右脚の切断など、プライベートに付いて回る青くさい不良性が、キャリアの妨げとなると同時に、かけがえのない魅力でもあったギョーム。彼が死の間際に演じたのは、母親に置き去りにされた健気な少年に情が湧き、血のつながりはないとはいえ、父親になるために真っ当に生き直そうとする、あまりに不器用な世捨て人であった。義足を億劫そうに引きずりながら、少年に背を向けてしまうギョームのただならぬ気配が、ハッピーエンドともとれる結末に、深い影をおとし続けている。

(映画ライター 服部香穂里)

第35回 “月と太陽”


 映画音楽界の名匠・モーリス・ジャール氏が亡くなった。昨年の11月に来阪された折、個別取材させて頂く貴重な機会を得たが、舞い上がり気味の若輩者を相手にも柔らかな物腰を崩されることなく、“優れた映画監督あってこその映画音楽である”との謙虚な信条を貫き、あくまで、映画監督=太陽が抱くイメージを、作曲家=月として、誠心誠意具現化しようとされる姿勢に、深く感銘を受けた。そんなジャール氏の知られざる仕事ぶりや映画音楽観が、彼をよく知る映画人の数々の証言から窺うことができるドキュメンタリー『モーリス・ジャールの軌跡』が、来たる4月18日、19日にPLANET+1で追悼上映される。大阪の映画ファンの熱烈な歓迎ぶりに満面の笑みで応えていたマエストロの面影を偲びつつ、あまりにも突然にこの世を去った氏の偉大な足跡を、今一度振り返れればと思う。

 長年にわたりパレスチナ・イスラエルを取材している土井敏邦監督の『沈黙を破る』は、ニュースなどでも頻繁に見られるパレスチナ側の悲劇のみならず、イスラエル軍の元兵士たちの肉声にも耳を傾けた、画期的な作品である。つい先日までTVゲームに夢中だった青年が、圧倒的な権力を行使できる場に送り込まれて急激に人間性を崩壊させていく、リアルな戦場。何よりも驚くのは、あらゆる立場に置かれた人々の重苦しい心の叫びを、ひたすらに受け止める土井監督の、強靭な人間力である。思い出すのもつらい凄惨な体験を吐露することで、懺悔を乞うているようにも見える元兵士たち、傷ついた彼らにとまどいながらも一層の愛情を注ぐその家族、そして、理不尽な侵攻による恐怖や怒り、憎しみを糧に、明日を切り拓くパレスチナ難民たち。彼らひとりひとりにニュートラルに対峙しながら、物言わぬ月として真実を反射し続ける土井監督に、ただただ感服。

 コミカルな演技と、身体を張った命懸けのアクションで、スター街道を邁進してきたジャッキー・チェンだが、いわば“陽”の代名詞のような存在の彼が、“陰”に囚われた主人公に扮した衝撃作が、『新宿インシデント』。女性の裸やタバコなど、子どもに悪影響を及ぼしかねないものをスクリーンに登場させることすら御法度だったジャッキー映画であるが、転がるように黒社会に飲み込まれていく今回のジャッキーは、汚い手口で小金を稼ぎ、露出は少ないながらもラブシーンもこなし、挙句は敵の腕をぶった切って流血まみれとなる。この方向転換には相当な覚悟があったと想像されるが、肉体の衰えとともにクオリティも下がる一方だった近年の彼の作品とは一味違い、“汚れちまった悲しみ”を漂わせるジャッキーの新たな1ページを刻むフィルム・ノワールとして、忘れ難い余韻を残す。

 センセーショナルな作品で、70〜80年代のアートシーンを席巻しつつも、89年にHIVのために42歳で亡くなった写真家・ロバート・メイプルソープ。この稀代のアーティストの名は多くの方々の記憶に鮮明であろうが、そんな彼の才能をいち早く見出し、アートとしての写真の価値を押し上げたコレクターのサム・ワグスタッフの存在は、あまり知られていない。『メイプルソープとコレクター』は、メイプルソープの陰に隠れがちだったワグスタッフの波乱万丈な生涯にも光を当て、彼らと奇妙な絆で結ばれたミュージシャンのパティ・スミスをはじめ、キュレーターやライターといった美術関係者たちの、時に辛辣にも聴こえるほど率直なコメントにより、ふたりのスリリングな関係が浮き彫りにされていく。愛と打算、美と醜悪さ、本質と虚飾とが混在するアート界の雑音の中、公私にわたりメイプルソープを支えたワグスタッフと、貪欲に名声を追い求めたメイプルソープとの、当人同士にしか理解し得ない独特な愛の在り方は、今もなお新鮮に映る。

 ウディ・アレンが久々に自らのフィールドに戻ってきた感のある快作『それでも恋するバルセロナ』は、アメリカとスペインとのカルチャー・ギャップが生むシニカルな笑いをまぶしたセックス・コメディでありながら、幸福を求めつつも袋小路に迷い込む、矛盾だらけの登場人物を通して、“永遠に続く愛など存在しない”というアレン流の達観した哲学が、全篇を覆う。オスカーに輝いたペネロペ・クルス扮する情緒不安定な天才アーティストは、同業の元夫と、別れた今も愛し合っているのに、太陽型の似たもの同士ゆえに諍いが絶えぬのだが、奔放なアメリカ娘・クリスティーナを挟むと、心の平安が保たれる。片や、クリスティーナの親友で、堅実な結婚を理想とするヴィッキーは、危険な魅力のスペイン男に太陽的な資質を覚醒させられ、女心はざわめき立つ。かくして、バカンス前と変わらぬ様子で帰国の途につくヴィッキーとクリスティーナのトランクの中身は、ほろ苦い人生のエッセンスで、はち切れんばかりである。

映画のもつ輝きを、最良の形で照らし出すのが、ライターの本分。苦悶の日々は、まだまだ続く…。

(映画ライター 服部香穂里)

第34回 “カメラのムコウ”


 『マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと』は、都合よく擬人化された動物が活躍する“動物映画”とは一線を画した佳篇。タイトルロールのマーリーは、盲導犬などとしても名高いラブラドール犬らしからず、壁を食い、網戸を突き破り、新品のネックレスを丸呑みし、しつけ教室の鬼教官(ちょいブルドッグ系のキャスリーン・ターナーの怪演!)ですら匙を投げる超問題児。であるにも関わらず、自ずと心地よい涙が溢れてくるのは、人間に媚びることのない犬本来の大らかさが、透けて見えがちなカメラのあちら側にいるスタッフの努力をも凌駕し、スクリーン一杯にはじけているからだろう。

 『長江にいきる 秉愛の物語』では、三峡ダム建設のあおりを受ける長江のほとりで、病弱な夫やふたりの子どもを抱えながら懸命に生活を営む秉愛と、フォン・イェン監督との、同世代の女性同士の長年にわたる強固なパートナーシップが、時にカメラの存在すら忘れさせてしまう。知り合って間もない頃は、秉愛にカメラを向けるや、話をはぐらかされることも多々あったそうだが、立ち退きのプレッシャーが日に日に増すにつれ、過去の切ない恋愛話から一人っ子政策ゆえの苦悩まで、それなりに波乱万丈なひとりの女性の半生が、何でも語り合える親友としての信頼を勝ち得た監督のみが捉えることのできる親密な空気の中で、くっきりと浮かび上がってくるのである。

 バラバラになった家族の愛を一途に渇望する元ジャンキーを繊細に演じ、一皮むけたアン・ハサウェイが、今年のアカデミー賞で主演女優賞にノミネートされた『レイチェルの結婚』。ジョナサン・デミ監督いわく“今まで作られた中で一番美しいホームビデオを”との思惑通り、全篇にわたり華やいだムードから愁嘆場へと反転しそうな危うい緊張感をはらみつつ、癒し難い喪失感をもたらしたある人物の、あるいは、神とも見まがうような視点に立つカメラは、長女の結婚式に集う一家にそっと寄り添い、各々が置き去りにされた苦い過去と対峙し、抑えてきた感情をぶつけ合い、やがてはささやかな一歩を踏み出す様を、辛抱強く見つめ続けている。

 『仕立て屋の恋』(89)『親密すぎるうちあけ話』(04)などで日本でも知られる女優・サンドリーヌ・ボネールが初監督を務めた『彼女の名はサビーヌ』は、胸をわし掴みにされるドキュメンタリー。サンドリーヌのひとつ違いで自閉症の妹・サビーヌは、情緒不安定ながらも、かつては才能豊かな美女で、姉の廻すカメラにも敏感に反応し、その多彩な表情や仕草は、サンドリーヌのみならず観客をも魅了するものであった。時は流れ、不適切な入院期間を経た現在の彼女はブクブクに太り、輝きを失った虚ろな目はカメラをスルーし、言葉にできない何かを姉に訴えかける。綿密な計算のもと、過去と現在が巧みに交錯するフィルムからは、クリエイターとしての非情さと、妹想いの親愛の情との間で揺れ動くサンドリーヌ自身の葛藤が、痛いほど迫ってくる。

 昨年9月に急逝した市川準監督が、最後に手掛けた『buy a suit スーツを買う』『TOKYO レンダリング詞集』は、『つぐみ』(90)『トキワ荘の青春』(96)など、急速に変化する社会のかたわらで、ひっそりと生きる人々にエールを送り続けてきた彼の特質がギュギュッと凝縮された、いとおしい中篇。故郷をもたない東京人・市川準がスケッチした普段着の東京の風景に、切りつめられた言葉が絶妙の間合いで重ねられる『TOKYO〜』は、最近の若手監督にありがちなト書きが見えるような風景描写とは真逆にあり、“出会わなければよかったなんて 言わないでくれ”という締めの一句は、HDVカメラで仕事仲間をキャストに迎えて撮った『buy a suit〜』のテーマにもつながる。大阪への憧れがやや強く出過ぎた『大阪物語』(99)に対し、東京の片隅で肩を寄せ合う関西人たちの一日を追ったこの遺作には、彷徨する不器用な者たちへの、市川監督流の共感が込められている。

(映画ライター 服部香穂里)

第33回 “雑食系びいき”


 “草食系男子”なる人種が増えているとか。そこそこモテて、異性をガツガツと求めず、平和を好むタイプ、らしい。そう言われれば、最近人気のある若手俳優は、総じて少年漫画よりも少女漫画チックだものね。しかし、芸能界自体、少なくともメンタル面では雑食でなければ(妙な言い方ではあるが)生き残れないハードな世界であるだろうし、それは実人生でも同じはず。先日、ナナゲイで4月11日公開予定の『Beauty うつくしいもの』に主演する片岡孝太郎さんにお話を伺う機会があったのだが、見るからに女形といった柔らかな物腰でありながら、初共演となる麻生久美子さんの出演作のDVDを事前にチェックして、「闘うには敵を知らないと(笑)」と、きっぱり語る素敵な笑顔に、役者としての熱い矜持を見た思いがした。

 『鑑識・米沢守の事件簿』は、「相棒」シリーズの隠れ人気キャラクター・米沢守をフィーチャーしたスピンオフ作品で、昨年大ヒットした劇場版の“二匹目のドジョウ”的な香りプンプンの企画ではあるが、これが侮れぬ拾いもの。通常のTVドラマ版では、捜査の手がかりとなり得る、ありとあらゆる資料を相手に、地道な作業を続けるオタッキーな職人といった印象の強い彼だが、本作では、ある日突然家を出て行った女房に未練タラタラな落第亭主のやるせなさや、自らの立場を危うくしつつも、組織悪に果敢に立ち向かっていくタフさなど、意外な顔を次々と覗かせて、その人物像に奥行きがもたらされている。昨年末に番組を“卒業”した寺脇康文扮する薫ちゃん最後の勇姿に加え、米沢へのさりげない愛に溢れたエンドクレジットに、思わず涙。

 クールな女吸血鬼をヒロインに、ヴァンパイア族と狼男族との壮絶な抗争を描いてきた『アンダーワールド』シリーズ(03,06)。その第3弾『アンダーワールド ビギンズ』では、これまで敵役的な扱いであった狼男たちの忌まわしい過去が明らかにされ、ヴァンパイアの奴隷として虐げられてきた“負け犬”どもの命懸けの死闘では、ボルテージがシリーズ最高に到達する。『クィーン』(06)でお茶目なブレア首相を、『フロスト×ニクソン』(08)で野心家のインタビュアーを軽妙に演じ、共演のヘレン・ミレン、フランク・ランジェラをナイス・サポートしてきたマイケル・シーンが、久方ぶりにマッチョなカリスマ性を、全身から大放出。ヒロインも、前2作でアクションがやたらと硬かったケイト・ベッキンセールから、情熱的な唇が魅力のローナ・ミトラに変更されたことで、異なる種族間の許されぬ恋の悲しみが、一層際立っている。

 今年のアカデミー賞でも8冠に輝き、圧倒的な強さを見せつけた『スラムドッグ$ミリオネア』。とにかくこの映画、インドのスラム街からたくましく羽ばたいていく子どもたちを、止まったら死に到るというサメになぞらえるがごとく、カメラも登場人物も、実によく動く。人糞まみれになりながらも、憧れの大スター・アミターブ・バッチャン目がけて突進し、極悪な大人たちの魔の手からも、間一髪ですり抜け、生死を分ける“ファイナル・アンサー”を前にしても、決してひるむことはない。一獲千金を夢見る者たちにとって憧れの人気クイズ番組に、あくまで賞金目当てではなく、出逢っては離れていく運命の女性に振り向いてほしい一心で出場する主人公のひたむきさに、ついつい心動かされてしまう。

 深刻な不況の中、健康な肉体と強靭な胃袋を併せもつ“雑食系”に、希望を託したいところです。

(映画ライター 服部香穂里)


第32回 “ビバ!映画館”


 2月13日(金曜日)の公開初日に“オカルト保険”をかけたと話題の『13日の金曜日』。この手の悪ノリな仕掛け、結構好きです。ハッタリでも何でも、とにかく世間の注目を集めんとするイベント・ムービーが、もっとあっていいはずで、第1作から約30年を経て甦った本作にも、得体の知れぬ期待感や、笑いたくなるような恐怖感を、その場に居合わせた観客と共有できる、ホラー映画ならではの醍醐味がある。『ギルモア・ガールズ』(00〜07)『スーパーナチュラル』(05〜)など、海外ドラマ好きにはおなじみのジャレッド・パダレッキ扮する、ひょろっとしたヒーローらしからぬ主人公の、それでも勇気を奮って失踪した妹を救おうとする兄妹愛や、殺害された母親への想いが異様な形で肥大してしまったジェイソンの悲哀など、殺人そのものをゲーム感覚で楽しむかのような近年の悪趣味な作品群とは一線を画する人間くささも、どこか懐かしい。

 祝!オスカー初ノミネートのリチャード・ジェンキンスの名演光る父の死で幕を開け、遺された葬儀屋一家を中心に広がる波紋を見つめた傑作ドラマシリーズ「シックス・フィート・アンダー」(01〜05)の演出や、虚無や孤独を抱える女性たちにそっと寄り添う『彼女を見ればわかること』(99)『美しい人』(05)などで知られるロドリゴ・ガルシア監督だが、新作『パッセンジャーズ』では、生存者わずかの墜落事故が謎を呼ぶスリラーに挑戦?なんて違和感も、やがては解消される。映画館に拘束された観客たちを、凄まじい緊迫感で釘付けにした、9.11の犠牲者への鎮魂歌『ユナイテッド93』(06)の壮絶なリアリティに対し、死への畏れや親しみ、人間同士の誤解や信頼といったモチーフを絡めて、ファンタジーに仕立ててしまうあたりが、ロドリゴ・ガルシア調。観た後に、アルバムを引っ張り出して、大切な誰かに再会したくなる、そんな作品だ。

 今年のアカデミー賞で、作品、監督、主演男優など主要5部門にノミネートされている『フロスト×ニクソン』は、ダイアナ元妃の事故死の余波を追った『クィーン』(06)の脚本も手掛けたピーター・モーガンによる戯曲を、モーガン自ら脚色したもの。前作では、王室を非難するTVニュースを、ため息つきながらもチェックせずにはいられないエリザベス女王の“日常”の描写などに、その人物像に信憑性をもたらす妙な説得力があったが、スクリーンの枠内にTVを導入することで、場外の観客と劇中人物との距離をぐっと縮め得る巧みな二重構造は、本作でも健在。ウォーターゲート事件で失脚後も、政界復帰を狙う怪物・ニクソンと、彼から謝罪の言葉を引き出し、自身も地位向上を目論むTV司会者との対決を通して、TVカメラというフィルターが炙り出す真実を見事に映し出し、人間・ニクソンの素顔に肉迫しているのだ。

 『紀子の食卓』(06)では、崩壊していく家族を容赦なくメッタ刺しにし、痛切にえぐり取った園子温監督が、家族というテーマをさらに突き詰めながらも、扉を外側へと開いた快作『愛のむきだし』。この渾身の一大エンタテインメントでは、盗撮も、性倒錯も、勢いよく飛び散る大量の血しぶきさえも、すべては、様々な障害に阻まれ廻り道を余儀なくされた若き恋人たちの、究極の愛の純度を高めるためだけに存在する。237分(!)という長尺を、盗撮ポーズも絵になる華麗な身のこなしの西島隆弘、豪快なパンチラ・アクションにも演じる喜びがはじける満島ひかり、ふたりの運命を憎々しいほどに翻弄しまくるメフィストフェレスのごとき安藤サクラら、映画界の次代を担うイキのいい役者たちの勢いに引きずられつつ、ただひたすら駆け抜けた疲労感の後には、それを遥かに上回るカタルシスが待ち受けている。そんな一粒で何度もおいしい体験は、映画館に脚を運んだ者のみが手にすることのできる、最高の参加賞なのである。

 映画は、映画館で観るからこそ、映画。観るべき上質な作品が、ひっそりと公開されては消えていく現状ゆえ、敢えて“映画館に行こう!”と、声を大にして吠えたくなった次第である。

(映画ライター 服部香穂里)


第31回 “スタアの野望”


 遅ればせながら、出稼ぎで上京したついでに、一条ゆかり漫画家デビュー40周年記念作(!)『プライド』を観た。人間は生まれながらにして平等である……わけがないことを露骨にまで突きつけ、破産しようがプライドを捨てきれないお嬢様と、不公平な現状を打破すべくプライドを捨て去った貧乏女学生との、てっぺんを目指した見苦しいまでに熾烈なバトルが繰り広げられるが、お互いに足を引っ張り合いながらも、歌唱力では拮抗したよきライバルとして、ともに浮上していく様には、妙な感動すら漂う。成功のためには手段を選ばぬヒロインを熱演した満島ひかりは、ナナゲイで2月末に公開される『愛のむきだし』にも出演。気が早いが、今年の新人賞レースをにぎわす逸材であることは間違いない。

 “スター”の座は、選ばれた一握りの人間のみが到達できる貴重なポジションであるが、ひと度手にするとムチャしてしまう、贅沢な破壊衝動に駆られるスターも多いようだ。

 オバマ新大統領の演説のネタにでもなりそうな、人類に“チェンジ”を促すエコ大作『地球が静止する日』では、謎の宇宙人を淡々と演じているキアヌ・リーヴスであるが、続く『フェイクシティ ある男のルール』でも、ウォッカの小瓶をオロナミンCのごとくガブ飲みするアル中のワイルドな暴力刑事に扮し、彼をスターダムへと押し上げた『マトリックス』シリーズ(99〜03)のネオ役のイメージを払拭せんと奮闘中。もっとも、傑作医療ドラマ「Dr. HOUSE」(04〜)で口の悪い名医を魅力たっぷりに演じるヒュー・ローリーや、映画化もされた「SEX AND THE CITY」(98〜04)の主人公・キャリーの元カレのエイダンことジョン・コーベットがトホホな役回りで顔を覗かせるなど、アクの強い個性派に取り囲まれて、結局は“ええ奴”に落ち着いてしまうところが、キアヌのキアヌたるゆえんかと。

 『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』(08)のまさかの怪演も記憶に新しいトム・クルーズ。『オープン・ユア・アイズ』(97)で見初めたペネロペ・クルスを、自ら製作・主演した同作のリメイク『バニラ・スカイ』(01)の相手役にも起用して、実生活のパートナーにまでしたり、自信満々のおしゃべりな議員役でイメチェンをはかった『大いなる陰謀』(07)では、内容に似つかわしくないこの邦題は、ひょっとしてトムの野心を代弁したものでは?と勘繰ってしまったほどで、“やれないことは何もない”とばかりに突っ走り続けるトムが、最新作『ワルキューレ』で演じるのは、何とドイツ人(もちろん台詞は英語)。爆撃で失った片目を目玉おやじのように大切に保管し、ヒトラー暗殺を“正義”と疑わずに猛進する実在した大佐役への、狂気にも似た彼の入れ込みようは、正直かなり怖い。

『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』(08)でもおいしい役どころで場をさらっていた韓国の人気スター・ソ・ジソブの、除隊後の本格的復帰第1作『映画は映画だ』。俳優になりたかったヤクザを、持ち味でもある悲しい瞳で好演しているが、彼が映画館でひとり観ている映画が、除隊後に黒社会へと足を踏み入れる青年の運命を痛切に描いた『グリーンフィッシュ』(97)であるのも、なかなかに意味深である。高慢ちきでケンカっ早い映画スターに扮した人気上昇中のカン・ジファンとの、役者の意地を懸けた判別不能なほどに泥まみれになりながらのリアルな死闘には、思わず目に汗かき釘付けになってしまう。“本気で殴ってどうする?映画だろ”と説教するマネージャーの台詞があるが、“映画”が“相撲”にも代替可能であることは、ここ最近の朝青龍へのあまりに過剰な批判が物語っている。横綱が本気を出すことが、イコール品格のなさに通じるという論理は、イマイチ理解できないのだが。

 バスジャック事件の生き残りの少女役が鮮烈だった『EUREKA』(00)、複雑な日常を生きる中学生の底なしの孤独と深い闇を易々と体現してしまった『害虫』(02)など、その華奢な背中にハードボイルドな映画女優の影を背負ってきた宮崎あおい。しかし、「純情きらり」(06)「篤姫」(08)で、NHKの朝と夜の顔を見事に務め上げ、国民的スターとなって映画界に里帰りした最新作『少年メリケンサック』では、これまでの彼女からは想像できぬほどのハジケっぷりが、度肝を抜く。オッサンバンドの加齢臭にまみれながらも、紅一点として全く引けをとることなく堂々と渡り合い、“ノーフューチャーでも、今が面白ければそれでOK!”的な彼らのハチャメチャな人生哲学に、次第に心を揺り動かされていくヒロインの姿は、漠然とした不安感が蔓延する現代社会をサバイヴするための何らかのヒントを、与えてくれているように思われるのである。

(映画ライター 服部香穂里)



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