第120回 “映画に愛されたひと”


 映画史に確たる名を刻んできた、マイケル・チミノ、アッバス・キアロスタミら大物監督の訃報が相次ぎ、激しい喪失感に襲われる中、彼らと同世代にあたるイエジー・スコリモフスキの最新作『イレブン・ミニッツ』は、監督として長年の沈黙を破った『アンナと過ごした4日間』(08)以降も、攻めの姿勢を崩さぬポーランドの鬼才の果敢さに、惚れぼれしてしまう快作。一見変哲のないある一日の、昼と夜のあいだの夕方5時を起点に、だだっ広い世界から見ればシミのようにちっぽけであっても、それなりに懸命に生きている老若男女の、たかが11分、されど11分の動向が、トーンを緻密に使い分けつつ活写され、微妙にすれ違い、関わり合う彼らを、“……マジか?!”の仰天エンディングが待ち受ける。そこからほのかに浮かぶ、終わりなき混沌と格闘する中で形成されたと思しき、シニカルなユーモア感覚に根差すスコリモフスキの人生観は、誰もが予期せぬ災厄の危険にさらされる今の現実を、反則すれすれの説得力で、容赦なく突きつけてくる。

 先日、家の片隅に転がっていたジョセフ・ケッセルの「昼顔」を偶然手に取り、一気に読了(はて、いつ誰が買ったのか……)。改めて観直したくなったルイス・ブニュエル監督の67年の映画版では、静かに壊れていくナイーヴな人妻役で危うい色香を放っていたカトリーヌ・ドヌーヴが、半世紀の間に心身両面で堂々たる貫禄をたくわえ、有能なベテラン判事を好演する『太陽のめざめ』。目の前で次々と起こるトラブルやハプニングにも迅速に対処し、人生に迷う青少年たちにとっての最良の道を選択しようと奮闘する人情派の姿には、美や若さにこだわる“永遠のマドンナ”的な可憐さに潔く別れを告げ、様々な苦悩を抱える若者たちのサンドバッグとなり信望をも勝ち取る、“肝っ玉かあさん”のタフさが宿る。大女優を相手に、ひるむことなく一心不乱にぶつかってくる新進俳優のガッツが、ドヌーヴの新たな一面をも引き出した注目作だ。

 高倉健として生き、高倉健としてこの世を去った、唯一無二の映画俳優の魅力を、その役者人生を伴走者として支え、ともに闘い続けた降旗康男監督のほか、マーティン・スコセッシ、マイケル・ダグラスら錚々たる顔ぶれが熱っぽく語る『健さん』。男も惚れる高倉健のイメージに沿うがごとく、女っ気のない出演者で占められる本作。そんな中、稀代のスター誕生の瞬間に、もうひとつのパラレルワールドへと身を潜めざるを得なかった、本名の小田剛一なる人物の素顔を知る数少ない存在として、実の妹さんがしみじみと回想する貴重なエピソードには、映画界の看板を背負い続ける覚悟を決めた孤独な男の心の揺らぎのようなものまでが覗き、そのあまりにストイックな生き方に胸が締めつけられる。ほぼ証言のみで構成され、幾多の出演作からのカットがほとんど登場しない分、却って健さん映画への飢餓感や、再見衝動が募ってしまう、ファン泣かせのドキュメンタリーである。

(映画ライター 服部香穂里)


第119回 “曲げない人びと”


 イチオシ若手俳優だったアントン・イェルチンの、あまりに突然の訃報が、かなり身に応えている。一見飄々とした佇まいに、移ろいやすい時代に流されない昔気質の頑固さのようなものを秘め、唯一無二の名バイプレイヤーへと羽ばたいてくれることを、密かに期待していたのだが……。あの独特の、鼻にかかったハスキーヴォイスがもう聴けないと思うと、ただただ淋しい。

 近年流行りの第二の人生を田舎で再出発する熟年夫婦の実話であれ、次々と降りかかる障害に立ち向かう若い恋人たちのドラマティックな物語であれ、この田中寅夫さん・フサコさん夫妻という最強カップルを前にしては、すべて霞んで見えてしまう究極のラブストーリーが『ふたりの桃源郷』。電気も水も通っていない山口県の奥深い山で、かつて自らの手で一から切り拓き、3人の娘の将来のために一旦は離れるものの、還暦後の余生を、再び懐かしい土地で過ごそうと決めた老夫婦。山に作業に出かけた寅夫さんに、“おじいさ〜んっ!!”と呼びかけるフサコさん渾身の絶叫は、「アルプスの少女ハイジ」(74)の天真爛漫なハイジにも負けないぐらい若々しく、自給自足の厳しくも豊かな暮らしを、お互いに支え合い育んできた伴侶への愛情に満ち満ちている。やがて夫妻に忍び寄る“老い”と、娘たちとの間に新たに生まれる葛藤や親子愛、そして訪れる永遠の別れに、涙腺崩壊必至である。

 クメール・ルージュの残虐極まりない圧政によりもたらされた、カンボジアの悲劇。その只中で過酷な現実を目の当たりにしたリティ・パニュ監督は、『消えた画 クメール・ルージュの真実』(13)という悲痛かつ革新的なドキュメンタリーで対峙したが、その余波とともに育った次世代の女性監督ソト・クォーリーカーは、負の時代に直接的・間接的に翻弄された各世代の人間模様を、内戦の混乱でフィルムの最終巻が紛失した1本の映画に秘められた悲しい真実を紐解く『シアター・プノンペン』という心揺さぶるフィクションとして、繊細に浮き彫りにする。仕事や恋を謳歌していた在りし日に、心が取り残されたままの元映画スター。様々な苦悩の板挟みに遭いながら、映画への情熱を甦らせていく映写技師。人生に絶望した母を元気づけるため、映画の結末を撮り直そうと奔走する女子大生。悲惨な歴史を、過去として埋もれさせるのではなく、生きた現実として未来へと語り継ごうとする、気概溢れる力篇となった。

 アカデミー賞原案賞を受賞した『ローマの休日』(53)のような名作を世に送り出すも、第二次大戦後にハリウッドにも吹き荒れた“赤狩り”の標的にされ、長く苦難を強いられた脚本家の闘いを描く『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』。信念を曲げず、仲間も売らず、投獄の果てに、表立った執筆活動さえままならなくなっても、様々な変名を巧みに使い分け、安いギャラで旺盛に作品を発表し続けたダルトン・トランボ。国家権力により理不尽な迫害を受け、多くの才能が潰されていったハリウッド映画史の暗部にも光を当てながら、献身的な家族の支えを得て、華々しい名誉よりも、映画人としての意地を貫き通した男の波乱の道のりに、大いに背中を押され、気力が自ずと湧き起こってくる逸品である。

(映画ライター 服部香穂里)


第118回 “ひとでなしBLUES”


 一部で話題になっている『おじゃる17』。放送初期の頃の『おじゃる丸』を愛していた者としては、それをやっちゃあ、おしまいよ……との印象。“17歳になったおじゃる”というアイディアに対し、原案者の犬丸りん女史が健在であれば、果たして首を縦に振ったかどうか。『ブラックジャック』の最終話『人生という名のSL』に、実年齢である18歳の容姿のピノコを登場させたのは、手塚治虫御大の自作とキャラクターへの限りない愛ゆえと思えるのだが。アニメーション化された際に、ピノコ役を吹き替えていた水谷優子女史も、先日51歳の若さでこの世を去り、彼女の演じる18歳本来のピノコの声も、聴けぬまま幻となってしまった。

 国家の命運を左右する政治から、どうでもいいゴシップまでもが、同次元で語られる今の時世のハチャメチャさを示唆する、象徴的な出来事だった佐村河内守氏をめぐるゴーストライター問題。既に懐かしさすら覚える一連の騒動を、「A」(98)などでドキュメンタリーの地平を押し広げた異才・森達也監督が、独自のアプローチで紐解こうとする野心作が「FAKE」。しゃあしゃあと嘘をつき、虚勢を張り続けなければ生きていけない人間の生態や、その根っこにある本質が、疑り深い異才によって幾重にも張り巡らされた仕掛けの隙間から、つるっと透けて見える。献身的な妻と超マイペースな愛猫とひっそり暮らす一室に出入りする、怪しげな面々とのやり取りを通して語られる“真相”。無愛想なカメラは、その真偽を問い直すことからは遠ざかり、遂には、監督と被写体との熾烈な共闘作業が新たに築き上げた、嘘から出たマコト=新・佐村河内守誕生の瞬間を、見事に収めてしまうのだ。

 個性と実力とを兼ね備えた、多彩な演技派俳優陣が集結し、清濁入り混じるスリリングなサバイバルゲームが展開していく注目作「トリプル9 ─裏切りのコード─」。ひょんなことから、元軍人や悪徳警官で構成されたグレーな剛腕犯罪集団に命を狙われてしまう、未熟な警官。ケイシー・アフレックがユーモアをたたえつつ飄々と好演する、何とも不運なターゲットが、実は驚異の悪運の持ち主だったがために、周到に練られたはずの襲撃計画は、瞬く間に綻びを見せ始める。ひとり、またひとりと命を落としていく過程の中で、家族を想う愛や、仲間に対する友情、無意識に潜在する良心のかけらなどが見え隠れし、ハードボイルドな本格的ノワールものでありながら、ひとの真価がドラマティックに交錯する逸品である。

 「その夜の侍」(12)で鮮烈な監督デビューを飾った赤堀雅秋が、前作に引き続き、いじらしくも滑稽なひとの心の奥底を容赦なくえぐり出す「葛城事件」。年齢とともに着実にキャリアを重ねてきた三浦友和が、「台風クラブ」(85)で演じた、のらりくらりな中学教師の30年後のような昭和気質のダメ親父の典型を、ナチュラルに体現する。一家の長として理想や体裁を重んじるあまり、徐々に追い詰められていく家族ひとりひとりの危機を見落とし、取り返しのつかない悲劇を生み、こっぱみじんに砕け散る葛城家。引きこもりの息子のストレスのはけ口が、身内で完結していたかつての時代の家庭内暴力から一変、赤の他人に向けられ、白昼の無差別殺人という理不尽な形をとるのも、現代社会の狂気を物語る。ただひとり正気を失うことも許されず、コンビニそばなど喰らいつつ、生き恥をさらし続ける父親の孤独が、トゲのように胸深く突き刺さる。

(映画ライター 服部香穂里)


第117回 “物言わぬ人々”


 列車が混雑しているにも関わらず、異様なほど静かで、乗客の誰とも目の合わない光景は、かなりシュールだ。膨大な量の言葉が、見えない形であっちゃこっちゃに飛び交っている様をふと想像してみると、何ともゾワッとした居心地の悪さを覚えたりもする。

 ガンを患い、声を失くした佐野和宏監督が、自ら主演も務めて18年ぶりに再起を果たした「バット・オンリー・ラヴ」。相当な遊び人だった奔放な過去も水に流して、重病を機に、愛妻家として新たに生まれ変わった初老の男が、長い結婚生活の中で隠し通してきた妻の秘密の一端を知り、あらぬ妄想を一方的に募らせていく。嫉妬に狂った夫は、筆談では到底追いつかない次々と溢れてくる感情の奔流を、底意地の悪い手段もフル稼働させながら、みっともないほどにさらけ出す。沈黙を続けざるを得なかった妻の苦悩を想像すらしない身勝手さに苛立ちつつも、驚くべき眼力と息遣いで、“俺には、お前しかいないっ!!”と、内なる想いを乱暴にぶつける夫の不器用な愛情表現に、熱いものが込み上げてくる。

 激動する中国の現実を、鋭く洞察してきたジャ・ジャンクー監督が、その波に翻弄されつつ生きるひとの心情にも深く分け入り、さらなる躍進を遂げる「山河ノスタルジア」。1999年、2014年、そして2025年を舞台に、彼のミューズであるチャオ・タオが、対照的な二人の男性の間で揺れる、溌剌とした女性の希望に満ちた青春時代のときめきから、結婚、出産、離婚を経て、逢うこともままならないオーストラリアで暮らす一人息子への思慕の情を胸に、傍らで寄り添う愛犬に見守られながら故郷で密やかに暮らす母親の孤独までを、次第に内省的に移行する木目細やかな演技で、見事に演じ切る。SNSの普及などで、身体的な隔たりすら克服できるかに思われる世の中に疑問を投げかけ、直にふれ合い、言葉を交わし合うことのかけがえのなさが、痛切に伝わる名篇である。

 終末医療の現場で、日々尽きることのない葛藤や苦悩と格闘する男性看護師の日常を、削ぎ落とした台詞に、丹念な描写を重ねて映し出す「或る終焉」。心身両面においてハードな仕事に備えてエクササイズを欠かさず、様々な病状で自由の利かなくなった患者たちの無防備な肉体と真摯に対峙する彼の、迅速かつ丁寧な働きぶりを通して、濃密な最期の時間をともに分かち合う当人同士にしか理解し得ない、独特の信頼関係や深い親愛の情が、そこはかとなく浮かび上がってくる。淡々と繰り返される看取りの儀式に、いつか必ず訪れる自身の“その瞬間”を重ね合わせ、観る者を厳粛な境地へと否応なく引きずり込む力篇となり、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞した。

(映画ライター 服部香穂里)


第116回 “夢うつうつ”


 生と死、現実と虚構、精神と肉体、過去と現在……などの垣根を、大胆不敵に踏み越える独特の作品づくりで、世界を熱狂させてきたタイの鬼才・アピチャッポン・ウィーラセタクンの最新作『光りの墓』は、いつにも増してフレンドリーで、ハートウォーミングな魅力に満ちた佳篇。謎の“眠り病”にかかった孤独な若き兵士と、彼を息子のように見守る、事故に遭い片脚が不自由となった女性。ともに映画や食事を楽しんでいる間であっても、不意に眠りにおちてしまう青年との、微笑ましいハプニング続きの交流は、ふたりの心が深く通じ合うほどに、メロドラマ的な哀感さえ帯びてくる。夢の心地よさに浸りきる彼に後ろ髪を引かれながらも、醜悪さをはらむ現実世界に決然と踏み出す彼女の潔さが、切なくも爽やかな余韻を残す。

 極私的な体験をも普遍的なエンターテインメントへと昇華させてきた、イタリアの実力派・ナンニ・モレッティが、実母の死にインスピレーションを得て撮り上げた渾身の作が『母よ、』。新作映画を撮影中の女性監督は、仕事では、トラブルメイカーの主演俳優らと衝突して思うように進まない現場に苛立ち、プライベートでも、入院中の母の病状の深刻さを受け止めきれず、日常に混乱をきたしていく。親より長生きできる保証も自信もない身には、死にゆく母を取り巻く丹念な描写の積み重ねにより、看取る側、看取られる側双方の苦しみがダブルで切実に襲いかかってきて、苦し紛れに見えて意味深な含みをもつ邦題の“読点”が、いつまでも棘のように突き刺さる。

 一見したところ鉄仮面のようなクールさを装いつつ、たとえば口角の微妙な上げ下げだけでも、内なる感情のほとばしりを巧みに表現してきたシャーロット・ランプリング。そんな大女優が、これまでになく多彩な表情を見せ、結婚45周年を迎える熟年夫婦の危機を繊細に演じ、アカデミー賞初ノミネートのほか、数々の演技賞に輝いた『さざなみ』。出逢う以前に山岳事故で亡くなっていた夫の恋人の幻影や、甦る恋の記憶に見る見るうちに支配されていく夫の変貌が、子どもには恵まれずとも、愛犬らとともに充足していたはずの妻の結婚生活を、根底から覆す。渦巻く疑念すべてに蓋をして、虚飾に彩られた幸福にすがりつくか、醒めない悪夢のような生き地獄を、目を見開き果敢に猛進するか……。ランプリングの示唆に富むラストダンスに、心が血だらけにされる力篇である。

(映画ライター 服部香穂里)


第115回 “めざめのとき”


 着物姿の女性を見る度に、“あさ、あさ!”と、目を輝かせて指さす朝ドラ・ウォッチャーのちびっこ娘に遭遇した、年の初め。気がついたら既に2月に突入、あさも洋装にチェンジして、あの娘、今頃どうしているかしらん……と、ふと思ってみたり。

 女優として着実にキャリアを重ねつつも、どこか頑なで生きづらさのようなものを観る者に与えてきたルーニー・マーラが、最高の当たり役を得て、カンヌ国際映画祭で主演女優賞に輝いた「キャロル」。本年度のアカデミー賞では、タイトルロールのケイト・ブランシェットが主演、ルーニーは助演でそれぞれにノミネートされているが、限りなくW主演に近い両者の絡み合いに、目が釘付けにされる力篇。何かと障害が多く、閉塞感漂う50年代初めに、自分が何者で、何を求めているのかさえ分かっていない若い女性が、何もかも手に入れているように見える人妻に憧れを抱き惹かれていくが、その奥に秘められた癒し難い孤独や虚無を知るうちに、彼女自身も解き放たれ、たくましくも美しく変貌していく。同性愛という偏りのある概念からは遠く離れて、どうしようもなく惹かれ合ってしまう女性ふたりの勇気と誇りが一瞬ごとにスパークする、極上のラブストーリーが綴られていく。

 世間の暗黙のタブーにも、硬軟織り交ぜつつ踏み込んできた東海テレビが、暴力団と呼ばれるようになって久しい、現代ヤクザの知られざる日常に迫る「ヤクザと憲法」。極道界が社会の縮図とまでは言わずとも、多様性を認めず無言の排他的圧力が見え隠れする、現在の不気味な風潮のあおりを一身に受けているのが、彼ら渡世人やその家族、ブレーンとして奔走する顧問弁護士たちであるということが、数々の事例から明かされる。ある記事に感銘を受け、“二代目清友会”の事務所の門を叩いた、若い青年。その真っすぐ過ぎる瞳には、三島由紀夫の『金閣寺』の主人公を彷彿とさせるような、狂気にも似たナイーヴさが宿り、決して楽ではなかったであろう彼の半生すら想像される。行き場を失くした者たちをも受け入れる、カリスマ性溢れる男前の組長さんが放つ言葉ひとつひとつが、重い説得力とともに深く突き刺さる注目作である。

 グアテマラ出身の新鋭が、ベルリン国際映画祭で銀熊賞に輝く快挙を達成した話題作が「火の山のマリア」。現代文明から切り離された火山のふもとで、自然や蛇の脅威にさらされながら、細々と農業を営む両親を手伝うマリア。まだ見ぬ外の世界へと連れ出してくれそうな、行動力溢れる青年の求めるがままに身体を委ねるが、あっけなく見捨てられた上に、ふたりの子まで宿してしまう。一家の安泰を約束する好条件の縁談を台無しにしかねない事態にも、罪なき赤ん坊が健やかに生まれるよう、伝統的風習に従い、情緒不安定な娘を温かく包み込む母の愛。都会への夢破れたものの、生まれ育った地で、次第に母性と内なる力に目覚めていく凛々しき少女。様々なジレンマを抱える、現在のグアテマラが直面する問題を背景に忍ばせつつ、腹をくくった女性たちの覚悟に、熱いものが込み上げてくる。

 ありのままの自分として存在できなければ、人生は生きるに値しない。それを証明するがごとく、生命をも危険にさらしかねない性別適合手術に、世界で初めて臨んだ実在の人物と、夫への愛ゆえに、すべてを受け止め献身的に尽くす道を選ぶその妻にスポットを当てる「リリーのすべて」。ストイックな風景画で相応の名声を得ていた画家は、肖像画にこだわり続ける妻の女性モデルの代役を務めたのを機に、長く閉じ込めてきた内なる自身と対峙せざるを得なくなる。そんな厄介な心と身体とのせめぎ合いを、かのホーキング博士を“等身大に”演じる離れ業をやってのけた「博士と彼女のセオリー」(14)に続き、エディ・レッドメインがナチュラルに好演。自らアプローチして結ばれた夫が、この世から消え去る代わりに、突然目の前に現れ出た“リリー”なる女友だちのため、ひたむきに奔走する妻の視点が加わることで、ぶっ飛び夫婦の驚異の実話から、永遠にすれ違い続けるよう運命づけられた、究極のメロドラマに仕上がった。

(映画ライター 服部香穂里)


第114回 “フィクションの力”


 愕然とさせられる事件や事故、天災や人災にふれるにつけ、過酷な現実と相対する、フィクションの在りようについても思いを馳せる。『ロパートキナ 孤高の白鳥』は、由緒あるロシアのバレエ団・マリインスキー・バレエのプリンシパルを務めるウリヤーナ・ロパートキナに密着しつつ、いわゆるプライベートは二の次に、それを犠牲にしてまで至高の芸術のためすべて捧げる“選ばれし人間”のストイックな日常を追う。出産を経たとは思えぬスレンダーな肉体を磨き続け、自身の献身的なバレエ人生を象徴するかのような“瀕死の白鳥”から、タカラヅカの男役のような風貌で器用さも覗かせる“ステイン・アライヴ”まで、天才ダンサーの多彩なエンターテイナーぶりを駆け足で振り返りつつ、永遠には踊り続けられない彼女の生のパフォーマンスへの興味をも駆り立てるプロモーションとしても一級のドキュメンタリー。

 西アフリカに位置するマリ共和国の古都を舞台に、フランスのセザール賞では作品賞を含む7部門を制覇した『禁じられた歌声』は、突然のイスラム過激派の侵攻によってもたらされる癒し難い傷跡と、それでも自由を求めて毅然と抵抗を試みる民衆とのせめぎ合いを、その渦中に知らず知らずのうちに呑み込まれていくある少女の真っすぐな眼を通して丹念に映し出す。実話がベースの作品にありがちな、ドキュメンタリー風の手持ちカメラを多用し過剰なまでに再現された緊迫感とは裏腹に、息を呑むほどの圧倒的な美を内包した静謐なロングショットを積み重ねることにより、血なまぐさい事象が常態化してしまった悲劇的な日常の先にも、尊厳ある生への渇望が絶えず育まれ続けていることが、切実に胸に染みわたってくる力篇である。

 役者として正にこれからという時期に、たった3本の主演映画を遺し、24歳の若さで破滅的な謎の死を遂げたジェームズ・ディーン。そんな彼の知られざる内面を、後に大成する写真家デニス・ストックとの故郷インディアナでの2週間の撮影旅行に託して描く『ディーン、君がいた瞬間』は、アンニュイな佇まいのまま、フィルムや写真の中で息をひそめて身動きとれずにいた伝説のスターを、自信家なのに不安げ、横柄な態度にナイーヴさと茶目っけを秘めた、ごく普通の青年として解き放つ。デイン・デハーンとロバート・パティンソンとのタイプの異なる男前対決に魅了されつつ、繰り返し観るほどに亡きディーンへの飢餓感が募る一方だった3作にも新たな視点を提供するに違いない、映画ファン必見の注目作。

 総尺5時間17分。改めて書くと長く感じられるが、出口の見えない生き地獄を這い続ける人生に比べれば、あっという間の時間が流れ去る『ハッピーアワー』。神戸を舞台に、親しい仲にも負けん気ありを貫くあまり、友情に陰りが見え始めるにつれ、関西人ならではの“ええ恰好しぃ”の仮面もボロボロとはげ落ちていく仲良し4人組にふんするのは、本職の俳優ではないものの、決して観飽きることのない個性溢れる女性たち。自分を完璧に演じられるのは自分しかいないとばかりに、それなりに充足した日々を過ごしながらも、どこか物足りなさを覚え、それを埋めるためであれば妥協なんてしない、少々傍迷惑でわがまま、でも、なぜか憎めないアラフォーを、ナチュラルに好演する。演技と素、台詞と本音との微妙なバランスが、いくつもの魅力的かつスリリングな瞬間を生み出す、濃密な野心作なのである。

(映画ライター 服部香穂里)


第113回 “水と油、+α”


 パリを拠点とする渡辺謙一監督によるフランス制作の『天皇と軍隊』。シンプルだがズバリ直球なタイトルに、戦慄すら覚えてしまうのは、この切っても切り離せない2ワードが、ややもするとミスマッチなものと錯覚されるほど平和ボケしていた日本の社会に、不穏で血なまぐさい気配が再び漂い始めているからか。命と引き換えにしてでも守るべき神にも似た超然的存在から親しみやすいシンボルへと、その概念を一転させながら、辛うじて天皇制が保持された影で、敗戦から70年経ってもなお、米国による様々な側面の支配からは逃れられずにいる矛盾。日に日に昭和が遠のき、平成も四半世紀余り過ぎた今の世に、風化させてはならない過去を胸に刻み、これからも“戦後”をひとりひとりの手で維持していくための心構えについて鋭く問いかけてくる、知的ドキュメンタリーの力作だ。

 人間とアンドロイド。平田オリザの次代を見据える革新的な戯曲を、気鋭・深田晃司がイマジネーション豊かに映画化した『さようなら』は、生きものと作りものである両者を隔てているはずの“心”の問題を、死と隣り合わせの孤独な女性と、古びて車椅子の助けを借りつつ彼女に一途に寄り添う一体との濃密な関係性の中で、叙情的に検証した意欲作。自らの意思をもつことなく、常に女性の写し鏡として苦楽を傍らで見守り、かけがえのない指針を失った後も、健気に使命を全うし続けてきたアンドロイドが、機械としての寿命が尽きる前に、最初で最後に見せる“本能”。そこに宿る、あり得ない息づかいさえも、芦澤明子のミラクルなカメラが見事に掬い取り、予定調和すれすれのエンディングに、余韻深い趣を与えている。

 片や政界に、片や精神病棟へと道を分けた、似て非なる双子の兄弟。そこに、かつて彼らと浅からぬ関係にあり、恐らく二人を正確に見分けることができる唯一の存在である人妻が加わり、謎めいた三角関係が展開していく『ローマに消えた男』。この微妙な邦題は、党の命運を握る選挙を前に忽然と姿を消した弟のことを指すが、その事実を隠すべく白羽の矢が立てられた瓜二つの兄の、著名な弟の身代わりとしての“替え玉”からは程遠い、明晰な頭脳と巧みな弁舌に根差す奔放すぎる言動が、混沌としたイタリア社会に旋風を巻き起こす。グレーな領域を残しつつ攻めに攻める名優トニ・セルヴィッロの一人二役の妙演と、否応なく胸をざわつかせるヴェルディの「運命の力」の序曲を効果的に用い、目の前の現実をパラレルワールドのごとく再構築してみせた、ユニークな逸品だ。

(映画ライター 服部香穂里)


第112回 “つい、見入ってしまう…”


 もっぱら録画に頼り、視聴率とは無縁の生活になって久しい。それ以外の時間も、気が滅入る一方の時事報道から逃れるべく、せっせとチャンネルを廻す中、その独特のトーンに思わず目を留めてしまうのが、NHKのEテレ(“教育テレビ”に戻してほしい……)で、日曜日の朝などに放送されている『ヨーコさんの言葉』。新聞のテレビ欄にも載っていないミニ番組だが、『100万回生きたねこ』などで知られる絵本作家・佐野洋子女史のシンプルだが真っ正直な言葉ひとつひとつと、北村裕花の手による味のある数点のイラストと相まって、休日早々に何とも神妙な気持ちにさせられる5分間を過ごすことになる。

 先日まで放映されていた『民王』では、ヘタレ息子と心が入れ替わってしまうコワモテ総理大臣をコミカルに好演し、劇中で“この顔にだけは生まれ変わりたくない”と言わしめた遠藤憲一。そんな彼が、両手両足を失った極道という表現手段を極端に制限された難役で、持ち前の“顔力”を存分に発揮した渾身の衝撃作が「木屋町DARUMA」。キャストの奮闘を活かしきれない残念な作品も散見される中、俳優としても着実にキャリアを築いてきた榊英雄監督ゆえ、“生きる”ことの痛みさえもエネルギッシュに演じきった遠藤ほか、心の奥底にまで触れる内向的な芝居で新たな代表作とした三浦誠己、年齢的にも精神的にもギリギリの堕ちる女子高生役に果敢に挑んだ酒呑みのアイドル・ワカコこと武田梨奈からも、手加減を知らない役者バカ(注:褒め言葉です!)包囲網の強烈な後押しもあり、これまで見せたことのない狂気の表情を引き出し、木屋町の、ひいては京都のイメージを根本から覆す、目を背けたくなる現実を容赦なく見せつける力篇に仕上げた。

 カナダの気鋭アトム・エゴヤンが、出世作「スウィート ヒアアフター」(97)を彷彿とさせる不穏さをはらんだ厳粛なショットを丹念に積み重ね、子どもが突然消えてしまう悲劇の余波を腰を据えて見つめ続ける「白い沈黙」。ヴァーチャルな社会のおぞましい暗部を象徴する、現代の“神隠し”ともいえる猟奇的な事件の実態が、8年もの歳月を行きつ戻りつしながら、巧妙に包まれた幾層ものヴェールを一枚ずつはぎ取ることで、徐々に明らかにされていく。すべてを覆い尽くしてしまいそうな白銀のナイアガラフォールズを舞台に、愛らしいひとり娘が忽然と姿を消した夫婦を襲う想像を絶する悲しみや、あまりにも脆い愛の行方、難航する捜査にのめり込む中で、苦痛に満ちた過去とも対峙せざるを得なくなる女刑事の葛藤などが、スリリングかつデリケートに綴られ、思いがけない感情に翻弄されていく人間の謎にも深く分け入る、極上のミステリーとなった。

 フランスの異才オリヴィエ・アサイヤスの「アクトレス 女たちの舞台」は、あのジュリエット・ビノシュが時代に取り残された名女優を演じるというパッケージこそ、少々引いてしまう向きもあるかもしれないが、役柄上は彼女の敏腕マネージャー、その実、W主演に近いクリステン・スチュワートとの、一瞬たりとも聴き逃したくない映画や演劇から芸術全般をめぐる白熱の対話に、ついつい前のめりになる注目作。「GODZILLA ゴジラ」(14)では、登場後たった5分ほどで命を落としていたビノシュの、ハリウッド大作に対するリアルなあざけり笑いに背筋が凍り、「トワイライト」シリーズで世間の話題をさらった後も、名声に溺れず順調なフィルモグラフィーを築き続けるスチュワートならではの説得力溢れる発言の数々に襟を正し、鍵を握るお騒がせ女優にふんするクロエ・グレース・モレッツ嬢の、ふたりに比べりゃまだまだのヒヨッ子ぶりに妙な好感を覚える、リアルとフィクションがラジカルに絡み合う逸品なのである。

(映画ライター 服部香穂里)


第111回 “前を向いて歩こう”


 バタバタついでに先延ばしにしてきた、『Glee』(09‐15)ファイナルシーズンの最終回をようやく観た。シリーズの核であったコーリー・モンテースの突然過ぎる訃報にも見舞われ、展開が沈滞気味なこともあったが、ネガティブな衝撃をポジティヴに反転させ、それぞれに葛藤と闘ってきた個性的なキャラクターたちの今後に温かなエールを送るグランドフィナーレとなっていた。

 未来を生きる意味であるとともに、苦い過去へと引き戻す存在でもある幼い娘と、未だ大人になりきれずにいる30歳のシングルファーザーとの奮闘を描く「ただひとりの父親」。積極的にベビーシッター役を買って出てくれる実家の両親らのサポートを得ながら、偶然知り合ったどこか謎めいたフランス人女性にときめきを覚えたりもするものの、事あるごとに脳裏をよぎる亡き妻との平穏ばかりでなかった日々が、一歩前へと踏み出す勇気を振り絞ろうとする彼に、重い足かせとして容赦なくのしかかる。疫病神のように見え福をもたらす神でもあるかもしれない受難続きなニャンコの絶妙の扱いなど、イタリア映画ならではの毒気強めの突拍子もない笑いも盛り込みつつ、不意に訪れる人生のつまずきから何度でも立ち直るために必要なヒントを、全篇に散りばめた好篇である。

 「わたしに会うまでの1600キロ」は、自分探しの旅に出た女性の感動の実話という原作自体には正直あまり食指が動かないものの、モラトリアム人間の希望の星ニック・ホーンビィの脚色が冴え、にわか山ガールの典型的な失敗例のような崖っぷちヒロインの半生を、ミステリアスに紐解いてみせる。最愛の母の死を機に、周囲の大切な人を傷つけ、はまり込んだ袋小路から抜け出せずにいたバツイチが、ひょんな思いつきから過酷な歩き旅を敢行する。孤独な旅路の中、決して平坦ではない自身のこれまでの軌跡をとことん見つめ続けることで、すべて浄化されたような境地を獲得していくまでの格闘を、本作でアカデミー賞候補となったリース・ウィザースプーンが、自虐的なユーモアを忘れず、原題の“Wild”にふさわしい大胆演技で豪快に体現している。

 毎回新たな趣向を凝らし、映画ファンを翻弄し続ける異才フランソワ・オゾンが、彼にしか撮れない切り口で、喪失の痛みを乗り越え人生を謳歌し始める人々を丹念に描く「彼は秘密の女ともだち」。愛情にも似た固い絆で結ばれた唯一無二の親友を亡くした平凡な人妻は、生後間もない娘と取り残され途方に暮れる親友の夫を訪ね、その知られざる一面を垣間見てしまい激しく動揺する。愛しのロマン・デュリスの予想外に麗しき女装姿は、観る者の度胆を抜くのみならず、とおり一遍の性と生にまつわる常識や世間体に囚われていた主人公にも大変革を引き起こす。オゾン流のしなやかで懐深いヒューマニズムを一貫させつつ、最近のトレンド(?)の“ありのままを受け入れる”ことに伴う困難からも目を背けることなく、その崇高さをもエネルギッシュに撮り上げてみせた。

 お涙頂戴の難病もののセオリーを心地よく裏切り、壮絶な運命に立ち向かう登場人物たちのまぶしい笑顔が爽やかさすら漂う余韻をもたらす「世界で一番いとしい君へ」。いわゆる韓流ブームが去った後も、その良質な側面を充実のフィルモグラフィーで証明し続けてきた、実力派スターのカン・ドンウォンとソン・ヘギョ。そんな彼らが、先天性の早老症を患い身体年齢は80歳を超えた16歳の息子をもつ夫婦を、色々な意味でファンには堪らぬ高校生時代も含めて、ナチュラルに好演している。絶望的な速度で人生を駆け抜けていく我が子の背中を必死に追いかけつつ、その身を嘆く時間すらもったいないとばかりに精一杯の愛情で包み込む両親と、自分が生まれてきた意味を真摯に問い続ける少年の姿が、人生は限りがあるからこそ素晴らしいことに改めて気づかせてくれる佳篇となった。

 愛のしこりを痛切にえぐった密やかな名篇「エレジー」(08)のイサベル・コイシェ監督とパトリシア・クラークソン&ベン・キングズレーが再タッグを組んだ「しあわせへのまわり道」。長い結婚生活の中で、無意識のうちにかけがえのない伴侶からありふれた同居人へと成り下がっていた夫の21年目の浮気により、人生が急転してしまう敏腕書評家の窮地に一筋の光をもたらすのが、この夫婦の修羅場にたまたま遭遇した厳格なシク教徒のインド人タクシー運転手。住む世界のまったく異なる男女が、運転免許取得のための自動車教習との名目で、同じ車内で濃密な数時間をともに過ごすうちに、友情と愛情が複雑に混じり合った離れがたい関係を育んでいく。酸いも甘いもかみ分けてきた彼女らが語らう、程よい距離感ゆえに吐露し合える傷だらけの実体験に基づく滋味豊かな言葉の数々が、胸の奥までじんわりと染みわたる、上質の人間ドラマである。

(映画ライター 服部香穂里)


第110回 “行動派に学ぶ”


 呑んだ帰りに梅田の地下街をぶらついていると、あの松葉の前が、どえりゃあことになっていた。行列を目にしただけで戦意喪失してしまう根性なしには考えも及ばない、それぞれの熱い想いを胸に、列をなす老若男女。店を愛してきた本当のお馴染みさんが多いといいけれど。

 敗戦から70年を経た今もなお終わることのない“戦争”に、断固としてNOを叩きつける沖縄の人々を活写する力作『戦場ぬ止み』。理不尽極まりない辺野古の米軍基地建設をめぐり、一般市民や漁師、対する、県警機動隊員や民間警備会社のサラリーマンたちが、それぞれにジレンマを抱えながら、自分がやるべきことを、身体を張って示す。無謀にも見える行動の中には、首を傾げたくなるものも正直なくはないのだが、生きる=闘うことを強いられ続けてきた沖縄県民が一丸となり、横暴な国家権力に倒れても何度でもぶつかっていく姿に、そして、本作を通して思いがけず遭遇することになる最晩年の菅原文太兄ィの、ひと言ひと言に説得力の重みが宿る朴訥とした語りに、自ずと熱いものが込み上げてくる。

 職人のこだわりと執念を結集させ、生命を与えられたクレイ・アニメーションならではの繊細な表現で、台詞の一切ないハンディさえ、最大の強みへと転じるミラクルな逸品が『映画 ひつじのショーン〜バック・トゥ・ザ・ホーム〜』。規則正しすぎる毎日から非日常を求めて、聡明なショーンと仲間たちが仕掛ける、思わず笑みがこぼれるほど手の込んだいたずらが、予期せぬ騒動の連鎖へと発展する。無声映画時代の大スターを彷彿とさせる、ショーンら個性溢れるキャラクターたちの表情豊かなアクションは、終始コミカルさをたたえつつも、その根っこにある、とぼけた牧場主やしっかり者の牧羊犬との強い信頼関係に胸打たれてしまう、大充実の85分である。

 危うい想像や妄想を、実際に行動に移すと、いかなる結果を招くのか。そんな悪趣味スレスレの挑発的な実験を、真っ黒なユーモアを利かせ、どこか歪んだ社会への鋭い洞察眼により試みた、アルゼンチン発のオムニバス問題作が『人生スイッチ』。エネルギッシュなアルゼンチンの国民性ってやつは……と他人事感覚で笑える方々は幸せであるが、願わくば体験したくない、それでいて、身に覚えがないとも限らない、6つの修羅場が展開する。妙に生々しい後味の悪さが徐々にクセになり、ラストを飾る大波乱の結婚式のエピソードの頃には、行くところまで突っ走る破滅型の人物たちにエールを送っている、アドレナリン過多な自分にふと気づき、背筋がゾワッと凍りつくのであった。

(映画ライター 服部香穂里)


第109回 “ロンリー考”


 ローラ・リニー目当てで、『キャシーのbig C』を視聴中。ガンで余命宣告を受けた主人公は、それを夫や息子にも打ち明けられずにいるが、事情を知らず呆気にとられる周囲など構わず、ひとりで暴走、時に自滅する様が、笑いと涙を交えて生き生きと映し出される。すべてを分かち合い病にともに立ち向かうのが理想形なのかもしれないが、このうえない孤独を活力に変えてさえいる彼女の孤軍奮闘も、すこぶる魅力的なのである。

 自給自足を宗とし、雄大な自然に恵まれた真木共働学舎で暮らす人々の1年を見つめる、本橋成一監督の『アラヤシキの住人たち』。世間一般の枠からはみ出た超個性的な住人たちが、相互に抑制したり牽制し合うのではなく、個々のペースを尊重(むしろ、放置)した上で、“働かざる者、食うべからず”を実践するべく、適材適所な労働に意欲的に取り組む様子は、微笑ましく清々しい。いわゆるペットや家畜とは一線を画し自由を謳歌する犬や猫、ヤギや鶏らを同居相手に、居心地のよさに敢えて背を向け外の世界に飛び出していく者、この地で新たに宿った生命と新生活をスタートさせる者、あるいは、長い迷走の果てに再び舞い戻った者たちの迷い、決断や覚悟を、すべてドッシリと受け止める“アラヤシキ”は、何かと窮屈な現代社会にとってのユートピアといえるのかもしれない。

 生き急ぐかのようにこの世を去った杉浦日向子の出世作を、アニメーションというジャンルへの期待感を確実に高めた原恵一監督が映画化した『百日紅 Miss HOKUSA』。あの葛飾北斎の娘をヒロインに、父親譲りの画才に恵まれるも、あまりに重い宿命と日々格闘しながら、浮世絵師という茨の道を全力で邁進する姿が、原監督ならではの俯瞰した視点から、程よくドライなタッチで描かれる。明けても暮れてもストイックに絵にのみ没入する彼女を真人間に戻してくれる唯一の人物が、尼寺で暮らす目の不自由な歳の離れた妹であり、生まれた頃から養ってきた心の目で、あまのじゃくな姉の内に秘めた乙女心をも見抜いてしまう。いわゆる家族や家庭とは明らかに異なるものの、それゆえに一層いとおしく想い合う愛の在りようが、丹念にカットを重ねることで、実写にも劣らぬ切実さで胸に迫ってくる。

 かけがえのない存在を失くした者同士であっても、その悼み方は一様ではないことを、ヒリヒリするような緊迫感と、愛し愛された記憶の温もりとともに、木目細やかに描き出した『追憶と、踊りながら』。ひとり息子の関心を奪い去った“親友”に対する嫉妬から、子を亡くした悲しみとともに様々な想いが散り乱れる母親と、最愛の相手の無念を晴らすため、不器用だが懸命に立ち回る恋人。とり残されたふたりは、お互いの複雑な胸中に真摯に耳を傾けつつ、これからも決して消えることのない喪失の痛みにひとりで耐えながら、それぞれの人生を歩み続けるしかない。孤独なるものの本質を残酷なまでに看破する厳粛な幕切れに、カンボジアに生まれロンドンを拠点に活動する新鋭・ホン・カウ監督の演出眼の卓抜さが凝縮されている。

(映画ライター 服部香穂里)


第108回 “バーバハハ”


 主婦だって、その道を突き詰めればキャリアに匹敵することを、飄々と実証してきた(ように見える)御年90歳の「きょうの料理」の鈴木登紀子ばぁば、女や母としてのアイデンティティと真摯に向き合い、貪欲に人生を切り拓き続ける『何を怖れる フェミニズムに生きた女たち』に登場する超パワフルなフェミニストの方々、とにかく自分の着たいものを着て、思うがまま自己を表現する『アドバンスト・スタイル そのファッションが、人生』の(遙かに)60歳超えの個性派マダムたち。それぞれのバイタリティーに圧倒されっぱなしの、4月。

 よくも悪くも溢れんばかりの自意識を炸裂させた“俺様映画”で、世界的に脚光を浴びるカナダの若き鬼才・グザヴィエ・ドランが、かのジャン=リュック・ゴダールとともに、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を分かち合った注目作が『Mommy/マミー』。子どもは親を選べないが、それは親とて同じこと。迷惑や心配をかけ通しの問題児であるが、自分なりの愛し方で世界中の誰よりも母を想う15歳の息子と、女としての幸せに未練を残しつつ、天使にも悪魔にも豹変する我が子を見捨てられない母。両者刺し違えかねないほど濃厚な愛憎で依存し合う母子の間に救世主として現れるのが、ある問題を抱えて教師を休職中の隣家の妻。これからの家族像を先取りするかのような新鮮な幸福感に、今にも壊れそうな脆さを内包した、ギリギリの均衡の上に成立する三角関係の顛末に、目が釘づけにされる緊迫の150分。

 17年間も友情を育み、めでたくゴールインの直後に懐妊したのも束の間、ガン告知を受けた妻が出産を成し遂げ天に召された実在の夫婦の、目の回るような493日間+αを涙と笑いで綴る『夫婦フーフー日記』。この映画の肝である“+α”を可能にするのが、存在理由も曖昧なまま、途方に暮れる夫の前にだけ現れる妻の幽霊。その亡き者らしからぬ毒舌は、愛する夫や生まれたばかりの息子への心残りを切々と訴える代わりに、作家志望の夫による、妻との闘病の苦しみから逃れるように日々書き連ねた装飾過多なブログにも、容赦なくダメを出す。未だ現実を直視できずにいる頼りないダンナに、乱暴気味なエールを送るヨメの生前以上の存在感が、誰にも必ず訪れる死を見据えつつ、それでも生きていくことの意味に、ポジティブな光を当てている。

 書き文字をもたないジプシーの娘に生まれるも、言葉への純粋な好奇心から、ありふれた日々の想いを率直に綴るうちに、天性の詩人として世に出ることになった通称“パプーシャ”の半生を追う『パプーシャの黒い瞳』。ポーランド社会が激しく揺れ動いた半世紀余りの歳月を、優雅かつダイナミックに行きつ戻りつする中で、彼女の運命を大きく変えることになる流れ者の青年や、父娘ほど年の離れた夫、大切に慈しんできた息子らへの秘めたる心情や様々な葛藤が、徐々に浮かび上がってくる。生まれついた時代や境遇に翻弄され続けたひとりの女の波乱の人生を、敢えて静謐なモノクロ映像を緻密に積み重ねることで語り尽くさんとする、本作が遺作となったクシシュトフ・クラウゼ監督の潔さや覚悟が見事に結実し、映画本来の凄みが全篇から滲み出る力作となった。

(映画ライター 服部香穂里)


第107回 “身のほど知らず <奮闘篇>”


 大いなる勘違いや思い込みは、実生活とは別に、映画を生き生きと弾ませる。嫌悪と憧憬が混じり合う、傍迷惑で自己中な面々の暴走には、危なっかしくも美しい力がみなぎる。

 たった今、目の前で起きている現在進行形の事象を、すぐさま過去へと追いやってしまう“撮る”という行為の残酷さを切なく見せつける『忘れないと誓ったぼくがいた』は、相容れるはずのないパラレルワールドのあちらとこちらに引き裂かれた男女が、必死に抵抗を試みるメロドラマ。なぜか他人の記憶の中に留まり続けることのできない、理不尽な宿命を背負わされた“選ばれちゃった女”を体現する、ももクロの枠からもはみ出てしまった早見あかり(仮に、『幕が上がる』に彼女がいたら、あれほどウェルメイドな作品に仕上がったかどうか……)の浮世離れした個性が、ツッコミどころ満載の設定や、平凡な高校3年生との報われるはずのない格差恋愛の悲劇性にも、半ば力技で説得力を与えている。

 いかなる道も忍耐ありきというぶっちゃけた現実を、そこはかとないユーモアにくるみつつ流麗に描く『間奏曲はパリで』。家畜に囲まれたマンネリ化した夫婦生活に物足りなさを覚える“さまよえる主婦”を演じるのが、未だ現役感バリバリのイザベル・ユペールゆえ、見てくれ好青年による、“愛があれば年齢なんて”をシニカルに覆す手痛い仕打ちがもたらす、ダメージの衝撃描写も抑えめ。熟年夫婦の倦怠の生々しさを吹き飛ばす本作の白眉は、堅実な生き方を望む父親の不満や心配をよそに、サーカス学校で真摯に芸を磨く息子が魅せる、幻想的なトランポリンの美技。一度きりの人生だから、つまずいたり傷ついたりしても、ささいな嘘や裏切りは水に流して、手にある幸せに改めて感謝する。大人の男女ならではの、遠回りな恋愛劇である。

 ひととして、ひとりの女としての自分の値打ちを、シビアすぎるほど冷静に査定してしまうダメダメな箱入り娘が、無謀にも勝ち星をあげることにこだわり、まったく無縁だったボクシング界に足を踏み入れ、過酷なトレーニングに一心不乱に邁進する姿を追う『百円の恋』。主演の安藤サクラの脅威の肉体改造に圧倒されるあまり、死んだように生きてきたヒロインの心を激しく突き動かすことになる、タイトルにもある引退間近のやさぐれボクサーとの“恋”の比重が、全体的に小さくなった感は否めない。それでも、1作ごとに、演技力なる漠然とした概念に疑問符をぶつけ続けてきた、“全身女優”のひとつの集大成として、観逃し厳禁の力篇に仕上がっている。

(映画ライター 服部香穂里)


 

第106回 “裏切られてBANZAI”


 日々の生活の中では、できれば裏切りになんか遭いたくない(とはいえ、裏切られるのが世の常だ)が、こと映画に関しては、期待や予想が追いつけなくなるのも、時には快感だったりする。

 『さよなら歌舞伎町』『娚の一生』『ストロボ・エッジ』と、今年に入るなり3か月連続で新作が公開される偉業(?)を成し遂げる廣木隆一。それにしても三作三様、パッと観では何ら共通点を見出せないが、いかなる男女の生の営みをも許容してしまう懐の深さが、多彩な廣木ワールドを支えている。それぞれの覚悟を胸にラブホテルに集う珍客たち、ひとつ屋根の下で急接近する男女、若さ(だけ)を武器に暴走・迷走し続けるティーンエイジャーも、ひと皮むけば似たり寄ったりの、孤独に怯える血の通ったひと。『娚の一生』の足舐めシーンに象徴されるねっとりとした感触が、健康的な佇まいの青春映画にさえ不意に立ち上ってくる“裏切り”も、いわゆる職人監督とは一線を画す。

 外見も中身もギュギュッと濃い、曲者俳優・ウィリアム・H・メイシーが初監督を務めた『君が生きた証』も、彼の役者としての資質同様に一筋縄ではいかず、様々な感情が次々と湧き起こっては反転していく、驚異の一本。急逝した息子が抱え込んでいた想いを理解するべく、遺された自作の歌を代わりに弾き語る父親の喪失感漂う鎮魂歌は、その音楽世界に魅了された周囲を巻き込みつつ、徐々に不穏な空気をまとい始める。そして、すべてが明かされた後に待ち受ける、プロの歌手顔負けのビリー・クラダップ渾身のクライマックスの絶唱が、かけがえのない子どもを失っても親は親であり続けることへの苦悩と、それと表裏一体の永遠の情愛を、痛切なリアルさで見事に謳い上げている。

 恋の歓びは、雨が雪に変わるように、いつしか哀しみへと転じてしまう。注目の気鋭・ギョーム・ブラック監督待望の長篇第1作『やさしい人』は、その移りゆく過程を、残酷なまでに透徹したまなざしで見つめ続ける。若くもなく、既に人生に行きづまりを感じ始めているミュージシャンが、鬱病の愛犬を相棒に、溌剌とした(かなり)年下の女性にときめきを覚えるが、どこかちぐはぐに映る年の差カップルが醸し出す幸福のまぶしさは、常に失われる予感をはらんでいる。そんな自然の摂理に抵抗しようとする彼の決死の悪あがきを、全身全霊で受け止める彼女が告白する、ふたりだけの“真実”。その形容し難い余韻をひしひしと噛みしめたくなる、繊細かつ強靭な愛の寓話である。

(映画ライター 服部香穂里)


第105回 “生きてるものの記録”


20年。
長いといえば、長い。
短いといえば、短い。
とにかく、まだ生きている。
その理由は、分からぬままに。

 死とは、ひとを引き裂くのみならず、悲しみによって、一層ひとを強く結びつけるものなのかもしれない。そんな感慨に襲われる『ふたつの祖国、ひとつの愛イ・ジュンソプの妻』は、後に国際的な評価を受けることになる夭折の韓国人画家と、彼との運命的な恋に身を捧げる日本人女性との、はかなくも濃密な愛についてのドキュメンタリー。わずか7年の結婚生活を経て、韓国と日本に離ればなれになってしまった夫婦。異国でふたりの息子と暮らす妻への溢れんばかりの想いを情熱的にしたためた200通にも及ぶ手紙や、39年という短い生涯に遺した絵画の数々を、90歳を過ぎた今も、うら若き乙女のごとくキラキラ輝く瞳で愛おしむ老婦人を目の当たりにすると、柄にもなく、不朽の愛なんてものを信じてみたくなる。

 大富豪がレスリング金メダリストを射殺するという、96年に起きた衝撃の事件に基づく『フォックスキャッチャー』は、主要3名の当事者のうち既にふたりが他界したにも関わらず、それゆえに到達し得たともいえる、異様なまでの緊張感とリアリズムが全篇を貫く。先日発表されたアカデミー賞候補に名を連ねたスティーヴ・カレルの原形を留めぬ狂気の怪演もさることながら、敬意と劣等感にさいなまれつつ茨の競技人生をともに歩んできた兄の命を奪った犯人も獄中死した今、事件の全貌を知り得る唯一の生き証人の弟という想像を絶するプレッシャーが圧しかかる役どころを、愚直なほどナイーヴに体現して見せたチャニング・テイタムの真摯な力演も見事で、野次馬的な軽薄さを一切排除する本作の風格を高めるのに大いに貢献している。

 幸福の絶頂の中で幼い子どもを亡くし、別離を選ぶあるカップルの軌跡を、男女それぞれの視点に立つ2作により丹念に描き出す『ラブストーリーズ コナーの涙』『ラブストーリーズ エリナーの愛情』。元通りには戻れない現実を受け止められず、妻への愛に執着するコナーと、喪失の痛みから逃れるように夫と距離を置き、新たな生き方を懸命に模索するエリナー。ふたりの心に映る情景やアトランダムに甦る記憶の断片は、同じシチュエーションであっても微妙に趣を異にし、そうしたズレや余白が、永遠に解き明かせない愛の神秘を物語る。メロドラマ性に彩られた『コナーの涙』、静謐なトーンが複雑な女心を露わにする『エリナーの愛情』ともに共感を覚えつつ、両作通して観ると新たに謎が深まる、心憎い企みに満ちたユニークな恋愛劇だ。

(映画ライター 服部香穂里)


第104回 “人間だもの”


 映画界の黄金期を牽引した、大物の訃報が相次ぐ。
ひとは、どうしようもなく、間違う。
至極当然ながら、見ないふりをしてしまう人間の本質を、不器用なほど真っすぐに体現できる稀有な存在の喪失の重さを、日々噛みしめる、年の瀬。

 『谷川さん、詩をひとつ作ってください。』では、この投げやりともとれるタイトルが示唆するように、本作のための書き下ろしも含めた、谷川俊太郎の数々の詩を通して、言葉のもつ可能性と限界、普遍性と抽象性が、静かだが激しくせめぎ合う。目まぐるしく移ろいゆく社会の中で、常に最前線に立ち、それぞれの時代を生きるひとりひとりに届く言葉を生み出し、紡ぎ続けることの苦悩や葛藤は、想像に余りあるが、谷川氏の妙にお茶目な“普段着”からは、そんなもの、とうの昔に吹っ切ったと言わんばかりの、現在も進化中の凄みすら漂う。漠然と捉えどころのない、本作の摩訶不思議な味わいは、飄々たる佇まいの、年齢不詳な大詩人の印象にも、どことなく似ている。

 あまのじゃくで口下手な人間に成り代わり、彼らと共に生き、その動向や心の機微をも間近で見守り続けてきた、物言わぬ馬たちが、時に自らの命を差し出してでも雄弁に物語る、ユニークでパワフルな群像劇が『馬々と人間たち』。お互いの行動を常に意識し合っているかのような、少々面倒くさいアイスランドの村で、馬並み、或いはそれ以上に、本能のまま暴走を続ける、ひとクセもふたクセもある人々が奏で出す、予測を遙かに超えたハーモニーや不協和音。それらは、しょうもない道徳観念など呆気なくぶち破り、広大で厳しい自然環境の中で、うらやましいほどの生命力を放ちながら、朗々と響き渡る。

 自分自身でさえも信用できないのに、いつまでたっても真っ赤な他人同士の夫婦なんて、アテになるはずもない。そんなミもフタもない現実をまざまざと見せつけつつ、妙な清々しさすら込み上げてくる、ミラクルな問題作が『ゴーン・ガール』。想像力たくましい夢見るユメ子が、メッキだらけな理想の王子様もどきを見誤ったことに端を発する、表面上は荒唐無稽な悲喜劇は、ひとりでは生きていけない世間ゆえ、少なからず演技のスキルが重要視される人生の地獄の一端を、リアルに垣間見せる。アメリカ全土を観客に見立てた、人騒がせにも程がある壮大な夫婦漫才に、青ざめ、身悶えし、腹をよじらせたりするうちに、今、自分が立っている場所すら、にわかに崩れ落ちる錯覚に陥る、恐ろしい力篇である。


(映画ライター 服部香穂里)


第103回 “幽体離脱”


 昔から、則巻アラレはアイドル的な存在ゆえ、HUSTLERのCMを目にすると、自ずと嬉しさが込み上げてくる(と、同時に、千兵衛役の内海賢二の美声がもう聴けない寂しさも……)。人間離れ(!)したポジティブさや強靭な身体に加え、全身凝り性の身にとって最も憧れるのは、初登場シーンも衝撃的であった、首から上で取り外し可能な頭である。肉体に束縛されることなく、すべてを客観視できる上に、痛だるさとも無縁だなんて……うらやましすぎる。

 今でも鮮明に記憶される、漫才師・河本栄得急逝の報から20年。相方として身近で支え続けた高山トモヒロが初メガホンをとった『ベイブルース 〜25歳と364日〜』の中で、河本が生き生きとスクリーンに甦る。お涙頂戴の美談に終わらせず、相方のみ知り得る、芸に懸ける身勝手なほどの生真面目さや頑固さもひっくるめて、太く短い生涯を駆け抜けた稀代の芸人を、豪直球で映し出す。その根底には、かけがえのない存在に予期せず先立たれた喪失の痛みと、20年もの間もがき闘い続けてきた、想像を絶する高山の苦悩がある。悲しみに満ちた物語ではあるが、この作品を撮ることで、夭折した河本の無念のみならず、同じく“あの日”に留まり続けたままの高山自身の魂もが解き放たれるかのような、カタルシスさえ漂う。

 かのドストエフスキーの原作を叩き台に、大胆に映像化した『嗤う分身』は、不意に現れた瓜ふたつの別人格により、理想と現実、美点と欠点、善意と悪意などの境界が曖昧となり、両者がスリリングに交錯する、様々な趣向に満ちた意欲作。一見乏しげな表情やリアクションの中に、他者には知られたくない自己の負の側面を巧みに表現し得てしまう、理知的な演技派・ジェシー・アイゼンバーグならではの、小技満載のひとり二役に魅了されるうちに、曲がりなりにも確立してきたつもりであった自身のアイデンティティですらも、崩れ去りそうになる。そんな恐怖にも似た感情とともに、開き直れば、新たなキャラクターとして振る舞うことも可能ではあるまいかという高揚感が湧いてくる、ユニークな味わいの逸品である。

 虚実の隙間に、ひとの本質を冷静に見つめてきたアトム・エゴヤン監督が、8歳の男児3人が犠牲となった実際の猟奇殺人事件を基に、社会の闇(=病み)を多面的に照らし出す力篇が『デビルズ・ノット』。偏見に満ちた色眼鏡を通して、悪魔崇拝者と決めつけられた3人のティーンエイジャーが逮捕され、警察も地域住民も、真相そっちのけで事件の終息を急ぐ中、そんな一方的な風潮に疑問の目を向けるのが、死刑反対論者の調査員と、大切なひとり息子の命を奪われた、心の傷も癒えぬままの母親。手足を縛られ、無残な状態で発見された子どもたちの、言葉にできなかった数々の想いに、あらゆる努力を惜しまず耳を傾けようとする作り手たちの真摯さが、本作を単なるミステリーとは一線を画す、胸迫る人間ドラマへと押し上げている。

 ドキュメンタリーは、監督と被写体との関係性をも、つぶさに映し出すが、双方が親愛の情で強く結ばれれば結ばれるほど、悲しみまで増してしまう作品が、『イラク チグリスに浮かぶ平和』。ジャーナリストでもある綿井健陽監督が、03年の米英軍によるバグダッド空爆を取材中に出逢った、アリ・サクバンとその家族の、不穏な社会情勢にひたすら翻弄され続けた10年間の歩みを見つめる。3人の幼い子どもを理不尽な爆撃で失ったのを発端に、綿井監督が一家を訪れる度に、不運な事態に巻き込まれた家族がひとり、またひとり少なくなっている悲劇を、観る者も追体験することになる。天に召された魂の残像が、新たに生まれた生命とともに撮影された家族写真。神の加護で生き永らえたことに感謝しつつも、その神が許すのであれば今すぐにでも死にたいと、アリの父親が吐露する姿が、痛切な印象を残す。

(映画ライター 服部香穂里)

第102回 “S 対 M”


 フィリップ・シーモア・ホフマンに続き、ロビン・ウィリアムズまで……。ひとりの人格の中に、サディストとマゾヒストとを同時に宿しつつ闘わせてきたような彼らだからこそ、到達し得た説得力溢れる功績と、あまりに大きなその代償。衝撃よりも、ただただ悲しい。

演劇界の大家・ピーター・ブルックの貴重なワークショップを、メガホンをとるサイモン・ブルックが、実の息子である特権(?)をフルに活用し、太っ腹に公開してみせてしまった『ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古』は、そこら辺の自己啓発セミナーが束になってもかなわない、実り多きドキュメンタリー。人生を象徴するがごとき“綱渡り”という究極のお題を与えられた演技者たちは、若手からベテランまで一様に四苦八苦、とことん自身と向き合い、あらゆる感覚を総動員させ、まったくの無から即興でシチュエーションを組み上げていく。温厚な笑顔に容赦ない厳格さを秘め、抽象的かつ具体的に投げかけられていく、様々な示唆に富んだピーターの言葉に、目の前が少し開けたような気がすると同時に、それらを実践に移すにはまだまだ修練が足りぬ……と、猛省。

 お互いの幸せを願うあまり、その首を絞め合ってしまってもいる、仲のよすぎる姉弟の、ぶきっちょな日常をスケッチした『小野寺の弟・小野寺の姉』。長所も短所も知り尽くした間柄ゆえに、目まぐるしく攻守を交代させながら、勝手に何歩も先回りした末に墓穴を掘ったり、傷ついているのに何事もないかのように強がったりする姿が、痛々しくも、いじらしい。片桐はいりと向井理という、一見似ても似つかないが、心を他人に対して完全には許しきらないであろうガードの堅さに、生きづらい脆さと、それでも生きていくための矜持とを、同時に備えていそうな厄介な共通点が、ふたりをいい感じに姉弟に見せている。他人はどうあれ、彼女らにとってのハッピーエンドがどこにあるのかを探りながら、その行く末を見守り続けていたくなる、温かな寓話である。

 売れる音楽とイケてる音楽、凡人と天才、善意と悪意……などの微妙な差異を、インパクト大な張りぼてのマスクが明らかにする、ユニークな逸品が『FRANK ‐フランク‐』。変人揃いだが、才能豊かなバンドを率いるフランクは、どうしてもマスクを脱げない深刻な問題を抱え、古い付き合いのメンバーですら、その素顔を知る者はいない。そんな中、壮大な野心に実力が追いつかない三流キーボード奏者が加入したことで、万人受けせずとも度胆を抜く音楽性が拠りどころだったバンド内に、亀裂が生じ始める。『SHAME ‐シェイム‐』(11)、『それでも夜は明ける』(13)などでも心の葛藤を丹念に演じたマイケル・ファスベンダーが、無表情の被りものを逆手に、いつ暴発するか分からない危うく繊細なアーティスト気質を、絶妙な緊張感を保ちつつ体現。マスクは果たして、フランクにとっての矛か盾か。複雑さをはらむ趣深いエンディングに、作り手たちの誠意がにじむ。

(映画ライター 服部香穂里)


第101回 “ええもん願望”


 基本姿勢は、自己嫌悪。そんなネガティブ思考の身であれ、たまには、マシな人間を気取ってみたい、心洗われるような体験をしてみたいと、恐れ多くも願ってしまうことがある。

 意外性溢れるヒーロー像も魅力の、マーベル・スタジオ発の作品であるが、その中でも、とびっきりのギャップが、予想だにしない感動さえ呼ぶ拾いものが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』。ノリのいい大らかさの中にナイーヴさを秘めたトレジャー・ハンターのピーターを中心に、口は悪いがメカには強いアライグマ、“アイ・アム・グルート”の一言で感情すべてを表現する温厚な樹木型ヒューマノイド、復讐心に駆られる女性暗殺者や大男と、数奇な運命に翻弄された天涯孤独の囚人たちによる寄せ集め集団が、『大脱走』(63)ばりの(?)脱獄劇を発端に、あれよあれよと宇宙規模のヒーローに押し上げられていく。ピーターが命よりも大切にしている、亡き母の形見のSONYのウォークマンから聴こえる、70年代のヒット曲の数々が、バラバラな個性のメンバーのみならず、観る者をも取り込む一体感を生み、宝箱をひっくり返したような本作の魅力に、大いに貢献している。

 妻には“退屈”呼ばわりされて去られて以来、友人代わりの大量の書物に囲まれながら、気ままだが変わり映えのしない毎日を送る、初老の古典文献学の教師。『リスボンに誘われて』では、そんな堅物が柄にもなく、吊り橋から身を投げようとしていた真っ赤なコートの若い女性を救ったことから、単調だった生活が急転していく。姿を消した彼女が残したコートのポケットに入っていた1冊の本をきっかけに、スイスのベルンからポルトガルのリスボンへと渡り、その著者の波乱の生涯を追体験するうちに、人付き合いに消極的だったバツイチが、大胆かつ行動的に変貌を遂げていく。ご都合主義スレスレの展開、枯れるどころか未だ現役バリバリのジェレミー・アイアンズが主演とあって、切実なリアリティには乏しいものの、決まりきった日常を思い切って壊してみる、曇りがちな目を少しでも周囲に向けてみることで、新たな何かに出逢えるかもしれないと思わせてくれる好篇だ。

 『大いなる沈黙へ ―グランド・シャルトルーズ修道院』は、孤独や死といった、日常の中ではマイナスに捉えられがちな概念を神々しいものにまで昇華させ、サンダンス映画祭などで賞賛を浴びた、あらゆる面で破格の約3時間にも及ぶドキュメンタリー。フランスアルプスに超然と佇む由緒ある修道院で、来る日も来る日も、厳しい戒律を忠実に守りながら、淡々とストイックに生きる修道士たち。本篇の中で度々挿入される“主よ あなたは私を誘惑された 私はそれに身をゆだねた”というエレミヤの預言が示すように、修道士の間で会話を交わすでもなく、ただひたすら神との関係性の中でのみ生きる、既に死の領域へと足を踏み入れているかのような境地で見せる表情には、厳しい中にも、現世のしがらみから解き放たれた平穏さが漂う。そんな彼らが、打って変わって雪遊びに興じる、極めて貴重なオフショットは、“天使の休息”とでも呼びたくなる、涙が出るほど崇高な幸福感に満ちている。

(映画ライター 服部香穂里)


第100回 “くう・ねる・いきる”


 精神的かつ肉体的に、日々味わうしんどさを、仕事や趣味などで紛らすことができるのは、人間の特権のように思われている。その大半を奪われ、すし詰めの寝台の上で“ヒト”に近づくことを強いられてもなお、かすかな尊厳を拠りどころに生きる人たちに、中国の異才・ワン・ビン監督が忍耐強くカメラを向け続ける約4時間のドキュメンタリーが『収容病棟』。よく言えば規則正しい、悪く言えばワンパターンなスケジュールで管理された、雲南省のとある精神病院。起伏の乏しい日々の中でも、見るからにたくましい恋女房の面会に駄々をこねて甘えまくる亭主、食べ物への異様な執着を隠そうとしない青年、鉄格子越しに愛をささやく熟年男女らに、むき出しの人間の本質を見せつけられると、安全圏で生活しているはずの自分の方が、余計な幻想に囚われている気がして、背筋にモゾモゾと這い上がる悪寒を覚える。

 舌から始まる恋もある……などと書くと、何やら卑猥な妄想を駆り立てかねないが、映画の国・インドの新しい波を予感させる珠玉作『めぐり逢わせのお弁当』は、間違って届けられた弁当がとりもつ、男女の不思議な縁の物語。腕によりをかけた弁当で、家庭に無関心の夫の愛を取り戻そうと奮闘する妻と、愛妻亡き後は手料理と無縁に過ごし、早期退職の日を待つばかりだった初老の男。そんな接点のあるはずのないふたりが、弁当箱に忍ばせた手紙で率直な気持ちをやり取りするうちに、お互いを特別な存在として意識し合うようになる。妻の味すら分からない薄情な夫と、ちょっとした塩加減についてまでバカ正直に批評してくれる見知らぬ男。ともに生き、ともに食し、ともに笑い合いたいのは果たして……言わずもがな、か。

 まだ8歳の少女が想像を絶する被害に遭い、韓国に衝撃を与えた事件をベースにした『ソウォン/願い』。学校やソーセージのキャラクターが大好きだった普通の小学生にとって、希望に満ちていた未来は、酔っぱらいの前科者による残虐かつ卑劣な暴力にさらされた日を境に、苦渋極まりないものへと反転してしまう。変わり果てた娘を前に途方に暮れ、自らを責める両親だが、娘とともに一生向き合い続けなければならない心身の障害は、忘れたい過去の刻印であるとともに、その恐怖や憎悪に打ち克ち、一瞬一瞬を着実に生きていることの証にもなり得る。無神経なマスコミに傷つき、友人たちの温かさに支えられながら、少しずつでも前を向いて歩もうとする家族の姿に、かけがえのない生命の尊さを実感させられる力作である。

 冒頭から目が釘づけにされる『ジプシー・フラメンコ』。その理由は、一見女の子かと見まがう、長髪もキュートな5歳の少年の大きく見開かれた目で、そのキラキラ度合いは、かの『ニュー・シネマ・パラダイス』(89)のトト少年にも勝るほど。興奮を抑えきれない彼が見入っているのは、スクリーンに映る『バルセロナ物語』(61)の中で踊り狂う伝説の踊り手・カルメン・アマジャの勇姿である。幼い頃に接したもので人間は育つことを実証するがごとく、踊りや歌が好きでたまらない少年がねだるのは、ゲーム機などではなく、本格的なダンスシューズ。そんな身体芸術の継承の最良形でもある、カルメンの親戚のダンサー母娘にもカメラは密着するが、身近にそびえ立つ越えられぬ壁を常に意識しながら、“本物”だけを追い求めて精進し続ける彼女ら渾身のステージから溢れ出す、生きる厳しさや喜びに、魅了されないはずがない。

(映画ライター 服部香穂里)


第99回 “今夜も眠れない”


 “節電の夏”を前に、早くも真夏のような暑さが続く中、不眠症にとっての味方は、読書にあらず。裏読み、斜め読みしたくなる映画と勝手に戯れ、日が昇るまでの退屈を、辛抱強くやり過ごす。

 主演・ケヴィン・コスナー × 脚本・リュック・ベッソンの『ラストミッション』は、ツッコミどころ満載の緩急利きまくったアクションとして気楽に楽しむのが、恐らく正しい。しかし、いきなり余命3か月と診断され、自らの命を引き延ばす代わりに、殺しの仕事を渋々請け負い続けるCIAエージェントの目に映る世界は、疎かにしてきた娘たちとの関係を修復したい一心にしても、あまりにも死への切実感に乏しく、それがベッソン印の王道であるとはいえ、楽観的に過ぎる。不死身のイメージの濃厚なコスナーに敢えて死を宣告するという、ある種のパロディーともとれる設定や、バチ当たりな契約によって思いのまま操る、彼の前にだけ登場する謎のセクシー美女の不可解さも含めて、映画全体が壮大なドッキリのように思えなくもない、妙に引っかかる珍品である。

 なぜ、“she”ではなく、“her”なのか。スパイク・ジョーンズ監督が、アカデミー賞オリジナル脚本賞に輝いた『her/世界にひとつの彼女』は、そんな素朴な疑問に対する答えが明かされるうちに、胸が締めつけられる逸品。依頼主に成り代わり、心づくしの感動的な手紙をしたためる代筆ライターは、別れた妻への未練を断ち切れずにいたが、そんな心の傷を癒してくれたのは、セクシーで愛嬌たっぷりの声(スカーレット・ヨハンソン、お見事の一言)をもつ、人工知能型OSの“サマンサ”。職場では目で、私生活では耳でコミュニケーションを図る、少々いびつだがユニークな喜びに満ちた時間が過ぎていくが、妻の肌の温もりを忘れられない彼に、サマンサは次第に淋しさを募らせる。日々驚異的に進化し続けるOSの暴走により、“僕だけのサマンサ”の枠を遙かに越えた、関係性の変容を迫られるふたりの“姿”は、普遍的な愛について、様々な問いを投げかける。

 メキシコの気鋭・カルロス・レイガダスが、カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した『闇のあとの光』は、タイトルなしには映画が成立し得ないという前提にすら揺さぶりをかけるような、一見穏やかだが、攻撃的な示唆に富んだ注目の一本。自然豊かな村に暮らす4人家族のありふれた日常に、密やかに忍び寄る“何か”。美しくも残酷な自然現象、抑圧できない暴力行為や性衝動、思いがけず湧き起こり、永遠には続かない愛さえも、“何か”によって導き出されるのだとすれば、ありとあらゆる世界の見え方も、ゆがみを帯びてくる。心の平安を求めてすがりつくのが宗教であるとすれば、信仰をもたない者にとって、不穏な現実をありのまま受け止め、生き抜くための拠りどころとなり得るかもしれない本作は、苦痛と快楽が後引く、真夏の夜の悪夢がごとき怪作なのである。

(映画ライター 服部香穂里)


第98回 “LINE!”


 人の道は、いくつもの見えない線によって支配されているようだ。無謀にも、それを越える選択をした人たちが織り成す悲喜劇は、一度きりの人生をいかに生き抜くかを模索する上で、含蓄ある示唆を与えてくれる。

 バルセロナからローマまで、映画でヨーロッパを旅してきたウディ・アレンが、サンフランシスコを舞台に、久々に人間のダークサイドの深淵をえぐり出す力篇が『ブルージャスミン』。血のつながりはおろか、何ら共通点のない妹とともに里親に育てられた後、試しに名前を変えてみることで、運命をゴージャスに反転させたかに思われたが、今やどん底であえぐ崖っぷち女の抱える闇に、ケイト・ブランシェットが“女・ウディ・アレン”として肉迫し、オスカーをはじめ数々の演技賞を受賞。早急に対処すべき煩わしいことには目をつむり、自分をよりよく見せることに躍起なジャスミン(偽名)のもがきようは、ウディ流のペーソス溢れるユーモアで包んでみても、笑っていられない切実さ。地味だが地道に暮らす妹を横目に、一発逆転の勝負に打って出る姉の末路を淡々と映す幕切れに、ウディのシンパシーとも近親憎悪ともつかぬ複雑な心情がにじみ、忘れ難い余韻を残す。

 ちと凝りすぎちまった邦題は一旦忘れて、ふたりの美しい母親と、その血を引く息子たちとの、ルール無視のえげつない四角関係から目が離せなくなる『美しい絵の崩壊』。オーストラリアの海辺で、小さい頃からずっと一緒だった仲良しコンビが、それぞれに結婚し、同年代の息子を生み、最高にして最悪の子育ての環境の中、母子ともに濃密な年月を過ごす。そんな息子のひとりが、家族も同然の母親の親友に、しまい込んできた愛を告白したことから、微妙なバランスで成り立っていた母親同士、息子同士、母親と息子との、完璧に見えた関係にも亀裂が生じ、母性に潜む女としての衝動や、理性では抑えきれない本能が、むき出しにされていく。いかに演じても品性が保たれる、ロビン・ライトとナオミ・ワッツという“Two Mothers”(原題)のキャスティングも奏功し、道徳的には許されぬ方向へと転がり落ちる展開にも、不気味な清々しさすら立ち上るのが、本作のユニークな美点かと思う。

 最も近くて遠い存在である、家族に対する疎ましさが、やがて愛しさへと変貌してしまうマジカルな逸品が『ぼくたちの家族』。ある日突然、崩壊寸前の某一家を辛うじてつなぎ留めていた母親が余命1週間と宣告されたのを機に、見て見ぬふりしてきた窮状が次々と明るみに出る中で、希望の光であった母親のため、妊娠中の妻からのプレッシャーにも男気を見せる長男や、斜に構えつつ鋭い観察眼と意外な行動力を発揮する次男、妻に愛されていること以外に取り柄のないダメ親父が、“悪あがき”と称して、ガムシャラに奔走する。前作『舟を編む』(13)では、それまでの少々アクの強い作風を封印し、超メジャーなキャストやスタッフにも落ち着いた演出で応え、高評価を得た石井裕也監督だが、引き続き一線級の面々を揃えた今回は、スマートな外見とは裏腹に、どこかタガの外れた滑稽で人間くさいキャラクターをそれぞれに課すことで、実力派俳優陣から、新たな一面を導き出すことに成功している。

 生まれてから死ぬまで、罪つくりな生きものであり続ける人間を、人間たらしめる尊厳と、その表裏一体にある暴力性に、強靭な演出眼で力作を発表し続ける中国の気鋭・ジャ・ジャンクーが、真摯に向き合った衝撃作が『罪の手ざわり』。現在の中国を象徴する様々な矛盾が浮き彫りとなった実際の事件をモチーフに、それぞれの苦難を打破すべく一線を踏み越えてしまう、年齢も境遇も異なる4人の男女の道行きを、過剰なまでにスタイリッシュでアクロバティックなアクションを意図的に取り入れながら、粘っこく追いかけていく。激動する時代においても変わらない、庶民の生命の輝きを見つめ続けてきたジャ・ジャンクーは、ただ平穏に暮らし、人並みの幸福を手に入れることさえままならず、誰もが罪人となり得る格差社会に静かに警鐘を鳴らしつつも、現状に泣き寝入りせず、自らの意志に忠実に行動を起こす人たちの決然たる覚悟に、世の中を突き動かす可能性をも見出している。

(映画ライター 服部香穂里)


第97回 “わたしを忘れないで”


 こちらが引いてしまうぐらい陽気で、しゃべり好きだった祖母は、似ても似つかぬ孫の誕生日の前日に亡くなった。自分の生まれた日を祝う趣味のない孫の性格を見越してか、ちと淋しがりやでもあった祖母の、“その日”を無意識に(あるいは意図的に)素通りさせまいとする、切実な想いのようなものさえ伝わってきて、何とも彼女らしい最期やったなあ……と、今でも結構、尊敬しております。

 不貞を働き、結果的に人の命をも奪うことになった三十路女を、元婚約者である判事が、自ら志願して裁く。私生活よりも、公的な立場や世間体が優先される権力側の人間を、公私混同せざるを得ない状況へと追いつめる、作り手のいけずな視点が、社会派ドラマの端々に、毒の利いた笑いをもたらす『ゼウスの法廷』。神妙な面持ちで被告席に立つ地味なジャージ姿にも、そこはかとない色気が漂う小島聖と、クソ真面目を絵に描いたようなギラつく目つきに、世の女性をとろけさせる熱っぽさがにじみ出る塩谷瞬という、人を食ったナイスなキャスティングが、迫真の法廷劇であったはずのものを、いつの間にやら“勝手にやってろ!”と突っ込みたくなる痴話へと変転させる。冷静かつ傲慢な“ゼウス”の死角で泣き寝入りしてきた人々の怨念が噴出したかのような、仰天のクライマックスにも、法廷には場違いな雰囲気全開のカップルが主人公ゆえか、シニカルなユーモアさえ漂う。

 『彼女が消えた浜辺』(09)、『別離』(11)などで、誰もがはまり得る人生の袋小路を、凄まじい緊迫感と、えげつないリアルさで描き出してきたアスガー・ファルハディ監督が、機能不全に陥ったある家族の亀裂が、とめどなく広がっていく様を、粘着質に追い続ける圧巻の家庭内ホラーが『ある過去の行方』。重い過去も無理やり水に流して、目の前の幸福に貪欲に生きてきた女と、そんな奔放な母の犯した過ちに見て見ぬふりできない賢明な娘たち、さらに、やんちゃ盛りの一人息子を伴い、彼女らと家庭を築き直そうと夢想するも、消せない過去に縛られ通しの男、そして、かつての家族の新たな門出を祝うべくテヘランからパリに舞い戻ったはずが、時に第三者として、時に身内として、ますます一家を混乱させてしまう元夫たちが演じる、胃がキリキリと痛むような修羅場の連続。その中心=火種であり続けるも、画面上に一向に姿を現さぬまま、存在感だけが増す一方の“第二の女”が、彼女たちの道行きの舵を、先の読めない暗がりの方へととり続けていく。

 女同士の濃密な恋愛ドラマではあるが、同性愛が主題の映画ではない。運命的な出逢いを果たした相手がたまたま同性で、不器用なほど正直に、全身全霊で愛し合ったからこそ特別な、忘れ難い余韻をもたらす珠玉のメロドラマが『アデル、ブルーは熱い色』。それぞれの家族を交えての食事風景のあまりの落差が、ふたりの間の根本的に埋めようのない溝と、その後に訪れる愛の破局を予感させるが、結果的に成就しようがしまいが、愛が本物であれば、その痕跡は残る。劇中でも重要なトピックとなるエゴン・シーレの絵画を彷彿とさせるような、痛みとカタルシスが同居した壮絶で美しいラブシーンの数々は、ふたりの胸中で燃えたぎり、その激しさゆえにお互いを傷つけ、永遠に忘れることのできない究極の愛を、観る者にも、鮮烈に焼きつける。

 社会の片隅で、途方もない絶望を抱えたまま、日々をやり過ごすように生きてきた男女の魂のぶつかり合いを、その柔軟かつ多彩なカメレオンぶりで、近年の映画の質の向上に大いに貢献してきた綾野剛と池脇千鶴が、もち得るものすべてを解放して堂々と四つに組み、見事に体現して見せた渾身の一本が『そこのみにて光輝く』。好むと好まざると、気がつくと陽の射さない場所で、身動きとれずにいた者同士が、お互いがお互いを照らし合い、必要とし、されることで、やりきれない人生に、もう少しだけ生きてみようと踏ん張り直す意味が生まれる。長篇デビュー作『酒井家のしあわせ』(06)より、ややこしくもいとおしい人間の営みを、温かく見つめてきた若手実力派・呉美保監督が、並々ならぬ覚悟で臨んだキャスト、スタッフ陣の熱い想いを受け止めつつ、自身もこれまでとは明らかに異なる境地へと、大きく踏み出すことに成功している。

(映画ライター 服部香穂里)


第95回 “裸々ライフ”


 P・S・ホフマン亡き今、稀代のコメディアンとしてのみならず、性格俳優としても、さらなる活躍を願ってやまないベン・スティラー監督・主演の『LIFE!』は、正にそんな(身勝手な)期待に応えてくれる快作。真面目にコツコツ生きてきた人間が、世知辛い現実と、妄想大爆発のファンタジーとの間を目まぐるしく行き来しながら、勇気を振り絞り、変化を受け入れることで、少しだけ報われる。その匙加減も、甘すぎず、苦すぎない絶妙の塩梅で、『舟を編む』(12)に次ぎ、一見地味な職業に光を当てている点も、“人生、捨てたもんではない”と、背中を押される思いがする。

 “演じる”という行為を通して、ここまで身も心もむき出しにできるのか。若手役者陣の決然たる覚悟に、驚嘆を通り越して感動すら覚えてしまう、チャレンジングな意欲作が『愛の渦』。一夜限りの性行為を楽しむために集まった、見ず知らずの男女は、後腐れのない間柄なのをいいことに、徐々に本性を露わにしていく……という物語上の設定に反して、主要人物がほぼ全篇脱ぎっぱなし、ギア入りっぱなしの異様な本作を成立させるためには、演じる側と撮る側、共演者同士が関係を密にして、まるごとぶつかり合わねばならない。人間の本質的な羞恥心と、演技者としてのガムシャラなプライドとの狭間で揺れ、現場で徐々に育まれていったであろう強固な一体感が、生々しい肉弾戦に、ある種の爽快さをもたらしている。

 片脚が不自由なせいもあり、何かとトラブルを招き寄せてしまう兄と、そんな唯一の肉親を献身的に支えるも、ウイスキーのボトルが手放せない繊細な弟とのやるせない日常を、彼らの現実逃避の手段となるリアルかつシュールなアニメーションを交えながら、丹念に描き出す佳篇が『ランナウェイ・ブルース』(原題は“Motel Life”)。亡き母親の“兄弟は、ずっと一緒にいなければならない”という、シンプルだが重々しい遺言が、恋人にさえ入り込む余地を与えない濃密な兄弟愛を育む一方で、ふたりの人生を、がんじがらめに縛り続けた末に、悲痛さの中に一抹の希望が差し込む、複雑で深い余韻のエンディングへと導いていく。

 1世紀以上も世界の歴史を見届けてきた、御年105歳のポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラ監督ならではの、人間を見つめる一途でいけずな成熟のまなざしが全篇を貫く、スリリングな怪作が『家族の灯り』。プライバシーなど皆無の穴倉のような住まいで、変わりばえのしない日々を、“死”以上、“生”未満の、“生殺し”のような状態で、肩寄せ合いながらやり過ごしてきた、ある老夫婦と義娘。そんな息苦しさから逃れて自由を求めるがごとく、8年前に失踪した息子の突然の帰還が、“義務”で辛うじて結びついていた一家の絆を無残に崩壊させていく過程を、狭い家屋からほとんど出ることなく、じっくりと凝視し続けるだけの強靭な忍耐力が、毎年のようにアグレッシブな新作を世に送り出す名匠の、創作の源となっているのだろう。

 ひとを好き嫌いで判断するのはマズかろうが、冒頭の、ネットカフェでオセロゲームに興じる山田豪氏の、“理事長”らしからぬカジュアルな(≒だらしない)風貌に、直感的に好感を抱いてしまった異色ドキュメンタリーが『ホームレス理事長〜退学球児再生計画〜』。各々の事情でドロップアウトした高校球児たちに、再びプレーと学ぶ機会を与えようとNPOを立ち上げたものの、運営費も底をつき、理事長自ら、昼間は資金繰りに奔走し、夜食代わりのバナナを抱え、電気も水道も止められた真っ暗な自宅に帰る日々。高邁な理想に反し、あまりに惨めな生活を余儀なくされる彼は、明らかに“ダメ男”ではあるが、メジャーリーグの見出しが躍る華々しさの影で、夢や希望に破れた球児たちの“これから”のために、ここまで愚直に行動できてしまうツワモノの人生に、熱いものが込み上げた次第である。

(映画ライター 服部香穂里)


第94回 “太い骨”


 映画の神は、何故かくも無慈悲なのか……と、言葉を失ったフィリップ・シーモア・ホフマンの訃報。彼がいなければ成立し得なかった意欲作、多少物足りぬとも、その存在だけで、作品の骨密度のようなものが格段に上昇する、他に代え難い演技者であった。あまりに突然のことで、未だ現実を受け止められずにいるが、初見以来、封印してきた『マグノリア』(99)、『脳内ニューヨーク』(08)などを観直すことが、少しは彼への追悼にもなるのだろうか。

 寡作ではあるものの、“本物”の映画監督・井口奈己の、実に5年ぶりの新作となる『ニシノユキヒコの恋と冒険』。いかなるタイプの女性をもモノにしてしまう、稀代のモテ男のタイトルロールにふんする竹野内豊と、そんな彼と最後の密会を楽しむ人妻・麻生久美子を左右に従えて、目の前のバナナパフェが気に入らぬのか、見るからにご機嫌斜めの少女が、堂々とセンターを陣取るオープニングに漂う、尋常ならざる空気。“あらゆる女性を虜にする”という大前提をいきなり覆してしまう、何とも有望な少女と、女性から女性へと飄々と渡り歩いてきたニシノとの、意外な形での再会を機に、その“恋と冒険”が紐解かれていくが、竹野内を取り巻く、幅広い世代の豪華女優陣も、井口監督の手にかかると、時に赤面したくなるような、恋する乙女のときめきを生々しく醸し出し、ファンタジーらしからぬリアルな肌触りが妙に後引く、ユニークな逸品となっている。

 未だ奴隷制度が容認されていた1840年代の米国で、いきなり拉致され、家族も本当の名前も奪われて、12年もの間、奴隷生活を強いられたアフリカ系アメリカ人の男性の実体験を、『SHAME ‐シェイム‐』(11)で映画界に衝撃を与えた、豪腕の新鋭・スティーヴ・マックィーン監督が映画化した『それでも夜は明ける』。いかなる境遇においても希望を捨てない主人公を、容赦なく虐げ続ける奴隷主を、前作に続きマックィーン監督とタッグを組むマイケル・ファスベンダーが巧演し、虚勢を張らねば生きていけない愚かな男に秘められたナイーヴさを通して、その時代の暗部を、痛々しいほどに体現してみせる。善悪、強弱といったシンプルな二元論に陥らず、それぞれに複雑な葛藤を抱えた、生身の人間たちが絡み合い、精神・肉体両面に訴えかける徹底したリアリズムと、人が人としてあり続けようとする生命力が、ダイナミックに脈打つ力篇が生まれた。

 04年のイラク戦争の最中、現地にいた日本人が人質にとられた。解放後の3人やその家族たちに、“自己責任”なる乱暴極まりない四文字熟語をはじめ、次々と浴びせられた強烈なバッシングにより、未だ鮮明に記憶されるこの事件の、その後を追ったドキュメンタリーが『ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件…そして』。とりわけ感銘を受けるのが、今なお日本とイラクの間を飛び回り、精力的に支援活動を続ける高遠菜穂子さんの、生き生きとした姿。事件直後の混乱にまぎれるがごとく、匿名性を武器に、肥大し続けた“大衆”によってもたらされた泥沼の苦境についても、率直に語っているが、同じ痛みを味わった家族からの頼もしい後押しを得て、“打たれても出る杭”としてパワフルに再起することこそが、正に彼女自身の責任を果たすことでもあるのだという意志が、きりりとしたまなざしに宿っている。

 1作ごとに趣を異にしつつも、筋の通った作家性により、観る者を魅了してきた韓国の鬼才・ポン・ジュノの許に、世界中から彼の才能に惚れ込んだスタッフ・キャストが集結した、血湧き肉躍る快作が『スノーピアサー』。氷河期に突入した近未来、一握りの生存者を乗せて走り続ける列車内を舞台に、すし詰め状態にあえぐ最後尾の貧困層が、富裕層が贅沢に暮らす先頭車両を目指し、前へ前へと突き進む。長篇デビュー作『ほえる犬は噛まない』(00)より、一貫して“個”のもつ強靭さを打ち出してきたポン監督は、『グエムル ‐漢江の怪物‐』(06)でも父娘にふんしたソン・ガンホ&コ・アソンをキーパーソンに据え、世のシステムに背いたとしても、自らの信念に従い、行動する個人の凛々しさを、スクリーン一杯に映し出す。“ハリウッド進出”といった安易な見方をきっぱり否定し、海外の映画人を自らのフィールドに取り込んだ上で、その世界観を破格のスケールで具現化した大作を世に放つしたたかさは、映画の神に愛された者だけがもつ、輝きに満ちている。

(映画ライター 服部香穂里)


第93回 “トゥルーメン・ショー”


 リチャード・リンクレイター監督と、主演のイーサン・ホーク&ジュリー・デルピーとの緊密なコラボレーションにより、どこかで実在しているのではと錯覚してしまうほどの現実味とともに、ジェシー&セリーヌの運命的な恋愛模様をヴィヴィッドに紡ぎ出してきた「恋人までの距離(ビフォア・サンライズ)」(95)、「ビフォア・サンセット」(04)。さらにその9年後を描く「ビフォア・ミッドナイト」では、将来への期待と不安に胸ときめかせていた初々しい20代のカップルは、いい感じにくたびれた中年に差しかかり、3作目にして、これまで意図的に避けてきた(と、思われる)ベッドシーンまで初披露。本シリーズの魅力のひとつである、淀みなく続くスリリングな対話の応酬が、気になる空白の歳月を一気に埋めた上で、議論派でロマンティストなふたりらしく、安易な“めでたしめでたし”をスルーして、“つづく”へと期待せずにはいられない、深い余韻をもたらす。

 「ダラス・バイヤーズクラブ」は、差別主義丸出しの生粋のテキサス野郎が、思いがけずエイズを発症し、それでも超自己中心的な生き方を貫き通すことで、世界にも希望をもたらしたという、いわゆる“感動の”実話の映画化とは一線を画す、ユニークな力作だ。奔放で乱れた性生活や悪習がたたり、余命30日と告げられた男が、死にたくない一心で、未承認のエイズの治療薬や情報をかき集めるべく世界を飛び回り、製薬会社やそれらと密接に結びついた医師団にツバを吐き続けた結果、あんなに毛嫌いしていた同性愛者たちにとってのヒーローへと躍進する。観客や批評家に媚びない演技で、独自の役者道を爆走中のマシュー・マコノヒーが、“難病もの×実話”という賞レース受けしそうな絶好の機会を得て、わがままな幼児性や愛嬌といった、乱暴だが憎めぬ彼ならではの個性を加味し、何とも奇妙で切ない人生の皮肉を、全身全霊で体現している。

 いつの間にやら、いい年食っていたフランソワ・オゾンが、快作「危険なプロット」(12)に続き、10代の若者の大胆さとナイーヴさに、新たな視点から光を当てる意欲作が「17歳」。さしたる動機も罪の意識もなく、いたずらに売春を重ねる17歳のヒロインの一年を、彼女の心の闇や空洞に、妙な理解や共感めいたものを寄せるわけでも、無神経な好奇心をぶつけて引っかき回すわけでもなく、その無軌道な動向を冷静に観察しながら、あどけなさと妖艶さ、ふてぶてしさと脆さの同居するマリーヌ・ヴァクトの、アンビバレンツな魅力を存分に引き出す。かつてのフランスの問題児(?)も、ベテラン勢との安定感に溢れ過ぎな仕事を経て、危うさと大化けする可能性にも満ち満ちた、娘・息子世代の新人たちからインスピレーションを得た近年の作品には、瑞々しい生気とリアリティが甦ってきた感がある。

 台湾の盲目のピアニスト・ホアン・ユィシアンの半生をモチーフに、彼自ら主演も務めた注目の逸品「光にふれる」。献身的に息子を支え続けた母の愛、ハンディを乗り越えて成功を手にするまでの苦難の道のりなど、映画にする際に、いくらでもドラマティックに脚色できそうな要素はストイックなまでに切り詰める代わりに、障害よりも根深く、心に深い影を落とす苦い過去を引きずる新進ピアニストと、親の無理解などから、大切な夢を諦めかけているダンサーの卵が、お互いに足りない部分を補完し合い、友情以上、恋愛未満の交流を育む、微笑ましいほど健全な姿が、温かく静謐なタッチで綴られる。身体のもち得る感覚すべてを研ぎ澄まし、自然をまるごと味わうことこそが、音楽やダンスなどの芸術が生まれる原点だということが、ユィシアンの心象風景さながらに、やわらかな光の中で、まぶしく映し出されている。

(映画ライター 服部香穂里)


第92回 “怖いもんなし”


 師走ならではの大勢の人たちでごった返す中、普段でさえ、日に何度も人とぶつかりそうになる身には、神出鬼没なベビーカーは、とてつもない脅威である。幼い子どもが親を従えるという構図のグロテスクさ。親がスマホに夢中にでもなっていようものなら、その無防備さと、通行人はベビーカーを避けて然るべきという、子をもつ親の絶対の自信が与えるプレッシャーは、半端ない。妙に小回りの利く高性能型が放つ、将棋の王将の駒さながらの貫録に、ビビりっぱなしの年の瀬である。

 「私は猫ストーカー」(09)、「ゲゲゲの女房」(10)を観れば明らかなように、役者としても活動する鈴木卓爾監督の作品には、今時珍しい、ハッタリに頼らない風格がある。最新作「楽隊のうさぎ」も、同じく吹奏楽ものでありながら、大学時代からの盟友である矢口史靖監督の「スウィングガールズ」(04)などとは趣を異にし、吹奏楽の陰の要でありつつ、目立った活躍や進歩が見えづらいパートであるパーカッションの面白さに目覚め、地道な努力を重ねていく中学生の少年の一年を、辛抱強く見守り続けるのである。すべてオーディションで選ばれたという楽隊の面々が、妙にレトロなビジュアルのうさぎに導かれながら、演技経験の乏しさを強みに転じ、ひたむきに役柄を生きた奮闘の記録が、リアルな説得力とともに映し出されている。

 「オール・アバウト・マイ・マザー」(99)以降、“巨匠”の名を欲しいままにしてきた感のあるペドロ・アルモドバルが、そんな名声に自ら砂を吹っかけるがごとく、ナンセンスなコメディに堂々カムバックした「アイム・ソー・エキサイテッド!」。着陸不能の緊急事態に陥った飛行機内を舞台にしていながら、墜落したってビクともしなそうな、クセありまくりの客室乗務員や乗客たちが織り成す、性差を大らかに超えたとりとめのない痴話、否、生々しい人間ドラマが、いわゆる見せ場を徹底的に回避しつつ、アルモドバルだからこそ許される、ゆるくもしたたかなタッチで展開していく。

 そう遠くはない日に訪れることだけは確かな死を、怯えながら待ち続けるよりも、自分の意志で迎え入れる選択をした、余命いくばくもない女性の、一見淡々と過ぎる日常に脈打つ、強さや凄みに魅入られる力作が「母の身終い」。刑務所から出たばかりの、ソリの合わない中年の息子との長年の確執は、死期を定めたところで、和解に向かうどころか、混迷を極める一方であるが、ふたりの緩衝材となる、人なつっこい愛犬の壮絶な献身ぶりが、修復不可能なまでにこじれていた母子関係に、光をもたらす。お互いへの甘えもあり、意地を張り合ってきた母と息子が、最後の最後で交わす率直なやり取りは、観る者に、伝えられなかった数々の想いへの後悔の念を想起させながら、痛切な感動を生む。

 両親、祖父母、さらには、代々の祖先たちにまで遡る、途方もない偶然が重なって、今、自分が、ここにいることの奇跡。時代の流れに翻弄されるというよりも、その波をチャンスに変えて、心機一転、トルコからドイツへと渡った、パワフルな一家の波乱万丈の道行きを、とことんポジティブに描いた快作が「おじいちゃんの里帰り」。時に面倒くさいほど厄介な存在であれ、喜びも悲しみもともに味わってきたからこそ育まれた結束力に支えられた、家族の愛しさが、かの『クレヨンしんちゃん』の野原家をも彷彿とさせるような底なしのユーモアをたたえながら、全篇から温かく溢れ出している。


(映画ライター 服部香穂里)


第91回 “孤高に幸あれ”


 『Glee シーズン5』の、コーリー・モンテースを追悼する第3話に泣く。無名に近かった若手俳優たちが切磋琢磨しながら、ともに成長してきた人気ドラマだけに、出演者陣のチームとしての結束力、そして、その中心で超然と佇みながら、忽然と消えてしまったコーリーの死がもたらす喪失感の大きさが、回想シーンを一切用いずとも、ひしひしと伝わってくる。悲しみに打ちひしがれる、遺された大勢の人たちの涙が、たったひとりで旅立った彼のとびっきりの笑顔を一層輝かせるような、名エピソードだった。

 メディアの注目を集めるセレブリティばかりを狙う、実在した窃盗団にスポットを当てた「ブリングリング」。監督を務めるソフィア・コッポラは、これまでも“精神的引きこもり”を愛でつつ、そのガードの綻びにジンワリと塩をすり込むような、けだるくも刺激的な作品を撮り続けてきた才媛だけに、今回も、そこらのお嬢ちゃんたちと大差のない、10代の少女(+少年ひとり)で結成された窃盗団の面々の心情に深く踏み込む代わりに、夜な夜な親しげにつるんでいるように見えても、本質的なところでは心の通い合っていない、イマドキの若者の表層的なコミュニケーションに漂う、ある種の心地よさと空虚感を、巧みにすくい取っていく。身近なようで遠いセレブへの憧れと嫉妬を秘め、悪びれもせずに罪を重ねていく、何者にもなれない彼女たちの、妙に冷めた青春の“リアル”が、そこにはある。

 貝塚市で、愛情豊かに育て上げた牛を丹念に屠畜し、その肉を販売する一家の日々を見つめる「ある精肉店のはなし」。手塩にかけてきた、勢いよく暴れまわる牛の脳天に、できるだけ苦しまないように一発入魂の打撃を加え、その生命を少しも無駄にするまいと、解体されたあらゆる部位に、ひとつひとつ丁寧な仕事を施していく家族の渾身の姿には、いたずらに“奪う”のではなく、“いただく”という、牛ならびに生きとし生けるものすべてに対する、畏敬の念が溢れている。作り手たちの問題意識が強すぎるあまり、どこか上から目線の食育映画とは一線を画し、食の最前線に立つ人たちの真摯で温かな人となりにふれることで、これからの“いただきます”にも自然と実感がこもり、今、生きていることに感謝したくなる、珠玉のドキュメンタリーだ。

 スクリューボール・コメディあたりに本領を発揮しそうな、サンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーによる強力コンビが、ほぼ全篇ふたり芝居によって、宇宙の恐怖や神秘を余すことなく体現した、臨場感たっぷりの意欲作が「ゼロ・グラビティ」。無重力状態の未知なる広大な世界に、たったひとりで放り出されたサンドラの途方もない孤独が、3Dの利点を生かしきった緻密な映像により、場内へも否応なくにじみ出し、圧倒的なリアリティとともに迫ってくる。追いつめられ、払拭できない苦い過去を振り返り、不可避の死をも意識したときに、突如として舞い込むファンタジーの要素が、万策尽きて生への希望を失いかけていたサンドラのみならず、次々と襲いかかってくるアクシデントのあまりの生々しさに、息苦しさすら覚えていた観る者の心をも和ませ、えも言われぬカタルシスをもたらすのである。

 スクリーンにぼうっと観入りながら、このゆるりとした時間がいつまでも続けばいいのに……と、久方ぶりに願ってしまった一本が「女っ気なし」。ありがた迷惑なほどの人の好さのために損ばかりしていて、ひとり菓子、ひとり酒、ひとり寝が日常のぽっちゃり系の青年と、彼の住む素朴な港町に、ヴァカンスで訪ねてきた魅力的な母娘との、長いようで短いような夏のひととき。未だ女ざかりのエネルギッシュな母親と、そのかたわらで複雑な思いを抱く娘は、ともに彼に“好意”を抱くものの、場面ごとに移ろう、そのニュアンスの微妙な変化が、まっすぐな彼を翻弄し、三者三様の心模様が、丹念なショットの積み重ねにより紡ぎ上げられていく。夏が来る度に、新たな出逢いと別れを繰り返す男女の、つかの間に燃え上がり、はかなく去ってしまう情愛の温もりが、切ない余韻となって胸に染みわたる佳篇である。

(映画ライター 服部香穂里)


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